- 作者: マイケル・バー?ゾウハー,広瀬順弘
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2015/08/21
- メディア: 文庫
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であればこそ──、この世界に存在する法に、自分たちの考える正当な「罰」を与える能力と基準がないのだとしたら、自分たちの正義に反するルールがまかりとおっているのならば、自分たちこそが正統的な「罰」を与えようとする者たちも出てくる。『法と正義が一体になっていないなら、どちらを取るか、選択せざるをえない。だから復讐者たちは危険を充分承知のうえで、正義を選んだのである。』とは本書の締めの部分に出てくる一節だが、これがまさに本書の核心を表している。
この本で取り上げるのは、歴史上きわめて特異な出来事である。類例のないほどの規模とさまざまな形でおこなわれた犯罪に対して、復讐を果たすために立ち上がった少数の人々の苦闘の跡を、この小冊はたどっていく。すなわち、これはユダヤ人たちの復讐の記録である。
「目には目を歯には歯を」方式で復讐するにはなしえないほどの規模で蹂躙されたユダヤ人だが、決して何もせずにすりつぶされたわけではなかった。彼らは今でいうところのテロのようなやり方でナチス・ドイツ時に重要なポストについていた人間、あるいはただ単に関与していた人間を、裁判のような正当な手段を行わずに次々と殺していった。時には個人が、時には少数のグループが、時には組織的な犯行として──その数は正確なところはわからないが内部事情に詳しい者によると、復讐者が処刑したナチの数は1000から2000の間だという。
本書はナチへの復讐を行っていた人、組織らを中心にインタビューと聴きこみを重ね、後にスパイ小説の巨匠として知られるようになるイスラエル人作家マイケル・バー゠ゾウハーが、そのストーリーテーリングの才能を投入し魅力的なストーリー型ノンフィクションとして仕立てあげている。最初に出たのは1989年のことであり、当時は関係者らが生きていた時代だった。むしろ取材執筆時点で第二次大戦から数十年の時が経ち、ようやく「正直に話しても、のちの人生にさほどの影響を与えない」として証言が集められる適切なタイミングだったのだろう。
本書の構成
それで、これは結局どのような本なのかといえば、構成がまず面白い。まず第一部では、ユダヤ人の復讐の具体例を取り上げ、聞き込みで得た数々の「ナチを復讐で殺してやった」個人から組織的な犯行までさまざまなエピソードを描写していく。中にはたんに拳銃を持って捨て身の特攻をかけて一人を殺す例もあれば、少人数チームでナチの元を渡り歩き一人一人処刑していく暗殺グループもあれば、捕虜収容所に収容されている3万6000人のSSを相手に毒を盛り皆殺しにしようとする大規模テロじみた例もあり大小様々だ。
第二部では、ナチの重要人物から小物まで、一転して歴史的な犯罪者となってしまった関係者らがどのようにして逃亡し生き延びた/あるいは生き延びられなかったのかを描いていく。南アフリカや中東に逃げる例、後にユダヤ人の国となるイスラエルへとユダヤ人のふりをしてもぐりこむナチなど、被復讐者の逃亡方法も多様である。最後の第三部では特に有名なアイヒマンをいかにイスラエル諜報機関が発見し、追い詰めていく過程を中心として、ナチ主要関係者らが追い詰められていく様を丹念に綴られていく。
復讐は何もうまない、のか?
復讐は何もうまない、だからやめるんだ──とは、物語ではよく聞く説得のロジックである。確かに、ヒトラーを残虐に殺したからといって失われたユダヤ人の命がドラゴンボールよろしく戻ってくるわけではない。特定個人の死とは不可逆かつ代えのないものであるから、代わりに何かを消したところでプラスマイナスが帳消しになるものではないのだ。そういう意味では確かに復讐は何もうまないのかもしれない。だが──、それも所詮「一理ある」程度のロジックでしかない。
実際にユダヤ民族として理不尽な集団虐殺を受けた彼らの中には、たとえ何が戻ってくることはないとしても復讐をせねばならないのだとする人間らが出てくる。なぜわれわれだけがアウシュビッツで地獄をみなければならないのか。黙っていなければならないのか。われわれをこんなめにあわせたあいつらの頭にも忘れられない名前を刻みつけてやるべきだと。そうして実際に幾人ものナチを、殺し自分たちが受けた被害と比べれば実に微々たるものだが部分的な復讐を遂げた人たちは何を感じ、考えたのか。
何人かの復讐者とじっくり話をした結論として、かれらの全員が、例外なく、国家のための歴史的な使命を託されたと感じており、民族全体の代表者であると思っていたようである。今日でもなお、かれらは義務を果たしただけであると信じきっている。復讐の願いを果たした喜びを味わったことが、道徳観念や精神状態に影響を及ぼしたということはないようである。そしてかれらのほとんど全員が、過去の行為を他人に知られている、いないにかかわりなく、現在はイスラエルの軍人や文官として重要な地位についており、普通の人たちと少しも変わりない。
復讐を終わらせなければ、前に進むことのできない障害物のような存在として彼らの心中には残っているように思える。彼らにとって復讐とは「相手への報復」だけを目的としたものだけではなく、自分たちがやらねばならぬ「義務」であり「正義の鉄槌」であったのだろう。だからこそ、もちろん一部のナチを殺すことで生き残りのナチの人生を恐怖に叩きこむなどの効果をもたらしながら──ユダヤ人復讐者にとっては、復讐が何ももたらさないとしても、復讐を完遂すること、それ自体が重要だったのだと今は思う。
実際、復讐を行った人、著者がインタビューした人の中では自身が行った復讐を悔いているものは誰も居ないのだ。『現在、かれらは軍の幹部をはじめ、ビジネスマン、教師などの職についたり、農業に従事したりしている。しかし、自分たちの過去の行為を後悔していると言った者は、一人もいない。反対にユダヤ人の報復は寛大だったと全員が信じている。』
結局、この本はなんだったのだろう?
本書を読めば、確かにユダヤ人が決してやられたままではいなかったこと、その端的な事実がわかる。また、人間がどのようにして組織的な「復讐」に出るのか、その実態をさまざまな事例から読み取ることができるはずだ。最初に引用したように、人は自分自身の正義にのっとって行動し、時に法が自身の正義に適合しない場合は、法を乗り越えて自分自身の正義を執行することがある。