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小説家であり続けることの難しさ──『職業としての小説家』 by 村上春樹

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

本書『職業としての小説家』は、村上春樹さんが1979年のデビュー以来35年以上にわたって作家として第一線で書き続けてきたこと、そうした「職業的小説家であり続けること」についての自分なりの考えを綴ったエッセイである*1。つまるところ、そんなものを期待している人がいるかどうかはわからないが、「職業としての小説家になる為に」的な本ではない──こともない。

曖昧な書き方になったのは、オリジナリティについて、何をかけばいいのか、長編小説を書くことについて、登場人物の描き方について、誰のために書くのかについて、それぞれ「村上春樹がどうやってきたのか」を書いているのではあるが、まるで小説家志望の人間に向けて語りかけるようにして書いている部分もあるからだ。『もしあなたが小説を書きたいと志しているなら、あたりを注意深く見回してください──というのが今回の僕の話の結論です。(第五回 さて、何を書けばいいのか?)

とはいえ、やはり大部分は彼の個人的な経験と、どのようにして今まで書き続けてきたのか、小説家という職業についてどのような思いを抱いているのかを彼らしいストイックな向き合い方で語っていく私的エッセイ録になる。

これまでエッセイで幾度となく触れられてきた事実、たとえば神宮球場でヤクルトスワローズ対広島カープの試合で、デイブ・ヒルトンがヒットをうった時に「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と天啓のように思ったエピソードなどもこの機会に改めて書かれているが、これまで語られたことがないような話も多い。下記引用部の「小説家とは」の話など、似たような言及は何度も読んだけれどもこの言い回しははじめて読んだなあ、簡潔にして要を得ている。

小説を書くというのは、とにかく実に効率の悪い作業なのです。それは「たとえば」を繰り返す作業です。ひとつの個人的なテーマがここにあります。小説家はそれを別の文脈に置き換えます。「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話をします。ところがその置き換えの中に不明瞭なところ、ファジーな部分があれば、またそれについて「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話が始まります。その「それはたとえばこういうことなんですよ」というのがどこまでも延々と続いていくわけです。(……)極端な言い方をするなら、「小説家とは、不必要なことをあえて必要とする人種である」と定義できるかもしれません。

僕は村上春樹さんの大ファンで、エッセイも含めて著作はほとんど読んでいるし、長篇は一度ならず二度三度と何度も読み込んでいる。どれかが一番好きか、というよりかは移り変わっていくスタイルの変遷と、それでいてしっかりと変わらずに根を張っている根っこの部分、それ事態に強く惹き寄せられる。「変わらないもの」、それは作品自体のスタイルというよりかは、一人の人間が「小説を書くこと」についてどのように向き合うのかという人生のスタイルに近い。

正直にありのままを語ること

「文学賞について」という章で、いろいろと正直に文学賞について思うところを書いているのだが、この章の最後で次のように語っている。『正直にありのままを語ることが、最終的にはいちばん得策なのではないかと、僕は考えます。僕の言わんとすることをそのまま理解してくださる方も、きっとどこかにおられるだろうと。』同じことは、つい最近行われていた村上春樹さんの質問サイト『村上さんのところ』でも語られていたけれども、この話を読むたびに僕は強い感銘を受けるんだよね。

それは僕が「理解してくださる方」だからとかそういう話ではなく、単純に35年以上の作家生活において彼の一貫したスタイルと言動は(もちろん意見は変わるが、その根っこの部分が)確かにブレていないことが時間が経つことによって明白になっているからだ。たとえば、職業小説家として『僕が真剣に案じるのは、僕自身がその人たちに向けてどのような作品を提供していけるのかという問題だけです。』と、賞をもらうかもらわないのかは彼のスタイルに一切関与しないのだということを強調する。

だが、所詮それは「ただの言葉」だ。嫌な言い方をすれば「綺麗ごとでなんとでも言える」わけだが、彼のこれまでの作家生活の在り方がまさにそれを肯定していると、少なくとも僕はそう思うのである。走りながら体力をつけ、そして日常生活の中で淡々と書き続けるというシンプルな行為を連続的に行わなければあれだけの長篇をなかなかこなせるものではないし、60を超えてなおこれまでより複雑でしっかりとした構造を持つ作品をつくりあげていけるものではないのだと。

正直さと実際的な姿勢

そして、その正直さは、彼の書くエッセイを非常にわかりやすいものにしていると思うんだよね。虚飾や見栄のようなものを取っ払って、難しい観念、複雑な状況への説明/考えであっても、自分の中で編み上げた理屈を、丁寧にわかりやすい言葉に落としこんでいく。小説と同じく彼の語る言葉はたとえ話や置き換えが多く、場合によっては迂遠にさえ感じられることもあるけれど、それでも僕には実にわかりやすく響く。たとえば、「オリジナルの文体を見つけ出すには」ついて書かれた文章を引用してみよう。

自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ、「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。考えてみれば、僕らは生きていく過程であまりに多くのものごとを抱え込んでしまっているようです。情報過多というか、荷物が多すぎるというか、与えられた細かい選択肢があまりに多すぎて、自己表現みたいなことをしようと試みるとき、それらのコンテンツがしばしばクラッシュを起こし、時としてエンジン・ストールみたいな状態に陥ってしまいます。そして身動きがとれなくなってしまう。

この件に関して言えば、重要なのは「何をマイナスにすればいいのか?」の方かもしれないが、そちらにも明快な結論が与えられている。『これも自分自身の経験から言いますと、すごく単純な話ですが、「それをしているとき、あなたは楽しい気持ちになれますか?」というのがひとつの基準になるだろうと思います。』というように。確かに喩え話は多いが、文章が目的としているところは明確で、この箇所にとどまらず本書全般において(全エッセイについてといえるかもしれないが)内実はとても実際的だ。

たとえば、「どのようにして自分の文体をつくりあげていったのか」についての具体的なプロセス、先に引用した「オリジナリティを得る為に何をしたのか」、海外へ出ていき、小説を外国で売る為に必要な、自分なりの体制をつくりあげていったこと。もっとも顕著で有名なのは、書き「続ける」為には、持続力を身につける他ないというシンプルな意見だろう。『基礎体力を身につけること。逞しくしぶといフィジカルな力を獲得すること。自分の身体を味方につけること。』

繰り返しになるが、凄いのは、彼自身がそれを長年にわたって実践してきたことだ。走り続け、同時に書き続け、作品は発表され続けてきた。恐らくはまだまだ書き続けてくれるだろう。晩年のドストエフスキーが傑作を連発したように、村上春樹作品が年老いてなおその魅力を失ってはいないどころか増している(と少なくとも僕には思える)こと、それ自体が僕には驚異的に思える。いったい、何がそれを可能にしてきたのか。その驚きの連続こそが、本書の根本的な面白さであるといってしまってもいいだろう。

*1:本書の前半部は雑誌「Monkey」に連載され、後半部は書き下ろしとして収録されている。