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極小の世界に存在する極大な世界──『ブラッド・ミュージック』

ブラッド・ミュージック  (ハヤカワ文庫SF)

ブラッド・ミュージック (ハヤカワ文庫SF)

グレッグ・ベアによる本書『ブラッド・ミュージック』はハヤカワ文庫補完計画の一環で新カバー&トールサイズ化して復刊となった作品だがラインナップが発表された時から読みたかったもののひとつ。元々日本語版が出たのは1987年、原書刊行が1985年となるが、実に30年の時を経てなお、鮮烈なイメージとインパクトを残す傑作だ。何より1985年にして極小の世界に存在する大いなる可能性を作品内に取り込んでいることが、まったく時代性を感じさせないものとなっているように思う。

SFで、規模を大きくしようと思ったら基本は「もっと先へ」「宇宙の果てへ」という発想になるのがまずはデフォルトというものではないだろうか。だって宇宙はとんでもなく広くて、いってもいっても終わらなくて何があるのかわからないんだから。でもこの何十年もの期間で、ビッグバン宇宙論などの研究が進んで極大の世界(宇宙は10の27乗メートル)と極小の世界(10のマイナス35乗メートル)の間に密接なつながりがあることがより詳しくわかってきた。huyukiitoichi.hatenadiary.jp
極小の世界の振る舞いは、現実世界をミクロ大として過ごす我々からしたら常識に反することがいくらでもおこる(何もない空間に粒子が産まれては対消滅していくこととか)。そして、まだその可能性は宇宙の果てと同じく追求されきっていない。本書『ブラッド・ミュージック』で僕が最初から虜にされてしまったのはSFとして規模の大きさを「外へ」向けるのではなくむしろ我々の「内」、極小の世界に広がる極大の世界へと向け、無限に宇宙を探検するかの如き規模のデカさを達成してみせたことだ。

簡単なあらすじ

ちょっと話が先走りしすぎてしまったが、物語の立ち上がり自体は比較的ゆるやか(十分早いけど、後半の展開に比べたら助走のようなものだ)。世界初のバイオチップ革命を今まさに起こそうとしている遺伝子系企業の研究者として勤務しているヴァージルは、こっそりと自主的な残業を行って自律的に動く──ようは知能を持った有機コンピュータの研究を行っている。

ようやくそれが成果を結ぶかと思ったタイミングでこそこそと業務時間外に私的プロジェクト、それも法律に違反していることをやっていることを指摘され、当たり前だが会社からはクビを宣告されあまりにも危険な男だということで同業種への転職さえまったく不可能にされてしまう。だが彼は持ち前のマッド・サイエンティスト性を発揮し、ひそかに自身の研究成果を家に持ち帰り、最後の成果として自分へ有機コンピュータを投入・統合をはかっていたのであった──。

最初こそ変化はあからさまではなかったものの、次第に彼の体は代謝がよくなり身体は引き締まって、視力もよくなりアレルギーもなくなって以前よりずっと健康的かつ魅力的な存在になっていく。美人な女性と旺盛なセックスライフも楽しめるようになりこれこそが次世代の人類か──と思うのもつかの間「作り変えられた彼の身体」は当然ながらさまざまな問題と懸念を引き起こしていくことになる。何しろ彼の身体を改変しているのは、彼の意志とは無関係な「何か」なのだから。

もし本書がマーベルから出ているアメリカン・コミックとして発表されていたなら彼は同じく遺伝子的に変異した敵性の能力者と自身の変異した身体を使って日夜マンハッタンだかニューヨークを舞台にして死闘を繰り広げることになるだろうが本書はグレッグ・ベアが書いたハードなサイエンス・フィクションだからそうはならない(ここ、無駄なくだりだったな。あとハルクとかぶる)。

物語はすぐに起点であったヴァージルを乗り超えて、この世界そのものへと対象を広げ、巨大な視点を手に入れてみせる。本書に主人公がいるとしたら──人ではないものの、後にヌーサイトと呼称されることになるこの知能細胞そのものであろう。身体を内側から作り変えていくヌーサイトは次第に人間の身体の中から多くの知識を吸収していく。「身体の「外」にも世界が広がっていること」を知り、自らが巣食っているものが知性を持つ有機生命体であることを知り、言語なるものを次第に理解し事実上のファーストコンタクトを果たすまでに成長し、物語はさらにその先へ──。

加速的にその規模を拡大していく物語

身体が内側から変容していく「恐怖」のパートは個人の人体変容に伴うホラー/サスペンス作品として優れている。それが「感染」し人類圏に次々と広がっていくさまが描かれると世界そのものが混乱に陥るパンデミックSFへと変貌し、ヌーサイトがその能力を用いて、さらに深い部分へともぐり、新しい理論を生み出すに至ると宇宙まで含めた「世界」はその姿を変容させ──とわずか400ページあまりの中にさまざまな要素が投入され、物語規模を増しながらも見事に結合されていく。

また別の側面としては、彼らは人為的につくりだされ、知能らしきものを携え、人類の存在に気がつくが、それはあくまでも彼らの観察対象の一端に加わったに過ぎないというのも重要だろう。彼ら=ヌーサイトの興味は人類の殲滅などにはないが、結果的に人類はどうしようもなく巻き込まれ、変異させられてしまっている。駆除することなど不可能で巻き込まれ続ける人類の在り方は、ある意味ではどうにも出来ない状況に翻弄され逃げ惑い続けるディザスターSFともいえるのかもしれない。

そうやって、まるで極大の嵐が過ぎ去った後かのように決定的に変質してしまった世界の情景はSFならではの美しさとなって現出している。書かれたのがいつなどとは、読んでいる最中まったく頭にのぼらないだろう。さまざまな物語ジャンルを取り入れながらあっという間にとんでもない規模と視点まで引き上げられてゆく傑作だ。

そういえば──まったくの偶然だが、つい最近同じく分子生物学と音楽の共鳴をテーマにして書かれたリチャード・パワーズの『オルフェオ』もついでにオススメしておく。こっちはこっちで、別ベクトルですさまじい作品だ。

オルフェオ

オルフェオ

ちなみにネビュラ・ヒューゴー賞をダブル受賞したという紹介のされ方も多い本書(オルフェオではなく、ブラッド・ミュージックのこと)だが、受賞したのは短篇verであって長篇verはノミネートされたものの受賞していない。本書は危なげなく傑作だと思うが意外とウケなかったのか? はたまたブラッド・ミュージックを打ち負かす作品が同年にあったのか? と調べてみたのだが……

ヒューゴー、ネビュラ共に『エンダーのゲーム』に負けておりそれは確かにちと厳しいかなあと思った(作品の出来が、というのではなく)*1 もし前年だったらいけるのかといえば、前年にはニューロマンサーが控えており、じゃあ翌年ならどうだ!? といえば今度はまたまた『死者の代弁者』とギブスンの『カウント・ゼロ』がある「マジかよ!」という恐ろしい3年間になっている。

さらに余談。ハヤカワ文庫補完計画枠とはいっても「新カバーによる復刊」は解説もそのままで追記はないことがほとんどなのだが、本書は山岸真さん解説に13行分の追記が(グレッグ・ベア作品のその後のSF受賞歴)されていてちょっとお得だったりする。当然触れるべき『幼年期の終わり』についてこの記事では触れていないが、詳細に解説で語られているからであることも付記しておく(読んでないわけじゃないぞ!)