基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

生と死、人間と非人間、その境界線上を──『彼女は一人で歩くのか?』

彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone? (講談社タイガ)

彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone? (講談社タイガ)

ついに、といったところだろうか。

『彼女は一人で歩くのか?』は、講談社タイガという新レーベルから出た第一弾で、いわゆるライトノベル・ジャンルとも異なって(そっちは既に講談社ラノベ文庫があるし)、多少年齢層高めへ向けたキャラクター小説の流れに乗る(新潮文庫nexとかの)作品群になるのではないかと作品ラインナップを見ていると思う。読者にとってはどのレーベルから出ようが関係ないけれども。

ついに、と書いたのは講談社タイガとは関係がなく、個人的な願望であった、「森博嗣世界のSF作品が読みたい」が叶ったからだ。正確にいえば、百年シリーズはSFだし、本書の折り返しでも『スカイ・クロラ』がSF作品として紹介されているし、これまでに書いていないわけではない。ここでいうのはもう少しジャンル・SFに寄った話で「未来社会の描写とその問題をじっくりと描いていく」作品を望んでいたのである。今あげた二作はどちらも状況から社会の在り方が多少推測されるけれど、真正面から語られることはなかったからだ。

世界の行末はどっちだ

その思い入れは、既存の作品を読んできている読者とはある程度共有できるものなのではないかと思う。森博嗣作品は全てかどうかはおくにしても出版社やシリーズを超えた世界としての繋がり──登場人物や、技術を持っている。その技術的な前進の革新部分を担っているのは、様々なシリーズでその影を見せる真賀田四季だ*1

過去作品には大量に、彼女がところどころでばらまいてきた技術が存在している。未来社会がどのような形になるのであれ、そこには彼女の存在と、過去作品の残滓がある。だからこそ森博嗣ワールドとして見た時に、「世界の行末」が気になる。あの技術は、どう変化していったのか。あの人は、どのように社会を変えたのか、と。

たとえば、本書の英題は「Does She Walk Alone?」だが、このWalk-Aloneはウォーカロンと呼称され、この時代では人工細胞で作られた人間とほとんど差のつかない=区別のつけられない生命体である。このウォーカロンは、百年シリーズである「女王の百年密室」「迷宮百年の睡魔」「赤目姫の潮解」をメインとして森博嗣作品群のかなり初期の段階でその存在があかされていたものだ。それでもその存在が社会をどのように変えたのか、といった広い視点で語られてきたことはなかった。

ここでついに、「ウォーカロンが一般的に普及した世界」に起こった、人類社会全体のレベルで起こった問題が語られることになったのだ。もちろん本書は既存のシリーズを一つも読んでいなくても問題がない独立した長篇なのだが、これまでこの未来社会がどのような実態を持っているのかを切望してきた人間はまずこの時点で「うひゃひゃひゃ」と笑い出したくなってしまうのである。

あらすじとかいろいろ

個人的な思い入れはこれぐらいにしておいて本書それ自体の紹介に入ると、時代は現代より数世紀あとの時代である。その時代では人間とは容易に見分けのつかないウォーカロンがそこら中に存在しており、人間は細胞を入れ替えることによって寿命をある程度乗り越え、生と死、人間と非人間の境界は揺らぎ、人口減少が進み、機械工学、生体科学、人工知能など技術的にはかなり進んだ状況にある。

物語は、そのウォーカロンと人間を高い精度で判別できる解析方法を構築しつつある研究者ハギリが何者かに命を狙われることから始まる。爆発物を用いたテロの相手は、目の前にきて銃をつきつけて自分たちの目的をぺらぺらと喋ってくれるわけではないので最初は「誰が、どんな組織がやったのか」「どんな目的があってやったのか」といった様々な情報がわからない。

依然としてハギリは狙われ続けるのだが、政府機関の人間に護られ、自身の研究を進めていく過程で幾人かの先進的な研究者と出会い、この社会に存在する幾つかの問題点とその着地点を思索することになる。いったいこの社会において何者が「ウォーカロンと人間の区別」されることを嫌うのか、それはウォーカロンなのか人間なのか、そんな区別にそもそも意味はあるのだろうか。ウォーカロンと人間の区別がつけられるのだとしたら、それは人間を人間たらしめている本質に迫ることなのか。

人間とは何か

このような問いかけが進行していくのは、SF・ジャンルならではのものだろうと思う。引用に使われているP.K,ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が人間社会に逃げ込んだアンドロイド捜索任務を請け負ったリックの物語であるように、人間と非人間の境界を扱ったSF作品は多い。この手のものをパッと思いついた順で分類するとだいたい次のようになるのではないかと思う。

  1. 移行期──人間と非人間が混ざり合い、アンドロイドは自我がうんたら自分は人間だとか悩んだり反乱を起こしたり逆に人間が拒絶反応を起こしたりする。
  2. 別の道──人間社会とはまた違った道を行くようになる。共存繁栄をするパターン、独立パターンなどいろいろあるが移行期の結果として分離した感じか。
  3. ポストヒューマン型──人間と非人間(アンドロイド等)は技術が進歩したら見分けつかないし見分ける意味ないじゃん的に振り切れている。

思いついたものを並べた。各分類の中で細々と分かれていくわけだが、本書は移行期の作品にあたるといえるだろう。SFジャンル的に面白いのは、「見分けられない」、あるいは「見分けやすすぎる」ことが人間やアンドロイドの葛藤に繋がることが多い移行期の作品と比較すると、「見分けられるようになる」事がある種の社会的な混乱を招いてしまうあたりにあるか。大枠としてはそのあたりが面白いが、そうした議論に至る過程を埋めていく思索もまた洗練されている。

「生命反応の有無と聞きました」
「それは違う。生命反応といったものは、単なるメカニカルな状態にすぎない。そうではない。人間が自然に考えているかどうかを判断できるという技術だ。生命反応ならば、人工的に簡単に再現できる。物理的に測定できるものは、それを模して発信ができる。生きているように見せかけることはとても簡単だ。しかし、考えているかどうかは、メカニカルなものではない。脳波は物理的なものだが、その変化は数量化ができない」

ウォーカロンと人間が区別がつかないのであれば、区別をしなくてもいいではないかとする人がいる。一方で、感情的にそれが受け入れられない人間もいるし、ウォーカロン側も問題とする存在はいる。この時代のウォーカロンは人工細胞を用いた生物的な存在だが、元々は機械的な存在だったという「技術的な変遷」の過程、この社会がどのようにウォーカロンを管理しているのか、人工細胞技術はいったいどのレベルにあって、どこまでが可能になっているのか──未来社会にどのような形がありえるのかを、一個一個丁寧に理屈をつけ、物語として現出させてゆく。

細胞を入れ替え人が容易には死ななくなった世界であっても問題はなくならない。人間が持つ研究をする能力、インスピレーションを得る能力によって新技術はいつだって生まれるし、新技術は状況を変化させ、変化する状況は少なからず軋轢を生む。同時に、新しい技術はそれがもたらす結果はいつだって厳密な予測が不可能なものだから、必ず何らかの問いかけを創りだす。社会はこの先どうなるのか。未来は、どうなるのか。これは、人工生命体と人間が織りなす社会の物語なのだ。

新たなはじまり

本書にて、「この世界はどのような経緯を辿って今の形になったのか」の一端が明かされた。だが「この世界は、この後どうなっていくのか」はまだ明かされていないし、その問いかけは終わることはないのだろう。本書は、Wシリーズと呼ばれるシリーズ物の1作であり、少なくとも現時点で3作目までタイトルが発表されている(「魔法の色を知っているか?」「風は青海を渡るのか?」)。いったい、このシリーズがどんな情景を浮かび上がらせてくれるのか、今から楽しみで仕方がない。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

  • 作者: フィリップ・K・ディック,カバーデザイン:土井宏明(ポジトロン),浅倉久志
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1977/03/01
  • メディア: 文庫
  • 購入: 70人 クリック: 769回
  • この商品を含むブログ (438件) を見る

*1:現在放映中の「すべてがFになる」にも絶賛出演中だが