基本読書

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"現実劇場"──『リトル・ドラマー・ガール(上・下)』

リトル・ドラマー・ガール〔上〕 (ハヤカワ文庫NV)

リトル・ドラマー・ガール〔上〕 (ハヤカワ文庫NV)

リトル・ドラマー・ガール〔下〕 (ハヤカワ文庫NV)

リトル・ドラマー・ガール〔下〕 (ハヤカワ文庫NV)

スパイ小説の巨匠ジョン・ル・カレによる小説である。元々英国情報部の一員であり大使館の書記官でありスパイ小説を書き始めてしまうという時点で凄いが、その上息子はニック・ハーカウェイの名で小説やノンフィクション作品を発表しているのだからてんこ盛りな人間である。ちなみに息子の作品も傑作である。huyukiitoichi.hatenadiary.jp
『リトル・ドラマー・ガール』の紹介に戻るが、本書もまたスパイ小説だ。物語の冒頭に語られるのは、ヨーロッパ各地で起こるユダヤ人を目的としたアラブ系の爆発テロ事件。対抗するのはイスラエルの情報機関で、彼らは自分たちの作戦に一人のイギリス人女優チャーリィを起用することを思いつく。彼女の演技力とその経歴によって、ある人物になりすまし、敵組織への潜入捜査を目的として──。

このようにして書名であるドラマー・ガールの意味は早々に明らかになる。なんでイスラエルの情報機関がスパイでも何でもないただの女優をスパイに仕立てあげなければならないのかなどかなり強引なところはあるのだが、素人をスパイへと仕立てあげるための「演技」を特訓する日々、一度潜入したあと、直接的なバックアップはほぼナシで敵地にて自分を偽り続けなければならないギリギリの緊張感を通して描く「現実と虚構の境目がなくなっていく」ことの恐怖とジレンマは一級品だ。

序文にて大勢のパレスチナ人、イスラエルの現役体液士官多数から助言と協力を受けたことへの感謝が述べられているが、そうした普通の作家ではありえないようなフォローを受けただけあって勢力間の複雑な均衡、パワーバランスの描き方もまた見事である。ジョン・ル・カレの小説は割合ゆったりとしていて回りくどいとする感想が出てくることが多いが、一つには中東あたりの問題が民族・宗教・政治・経済と様々な問題がからみ合っていて、面倒くさいことも関係しているのだろう。それとは無関係に展開はやたらともっさりしていて特に序盤は退屈なのだが。

何しろ上巻はリトル・ドラマー・ガールであるチャーリィを情報機関があくどいやり方でスカウトしてきて、訓練しているだけなのだから。だが、この訓練の過程などに恐らく助力が活かされているのだろう。潜入任務に挑む際の訓練はどのように行われるのか? 全く異なる人間を演じるために、どのような準備が必要なのか? チャーリィと情報機関の面々は様々なパターン、経緯を想定し、一つ一つ「この場合は、こう反応する」とプランを綿密に練り上げていく。架空の経験を持った全く別人となるために、架空の経験を座学で叩き込むのではなく実際に体験し、自分がした反応を覚えこむことによって『先の現実にあたらしいフィクションを重ね』あわせていく。

「わたしをミシェルと覚えてくれ。ミシェルの"M"だ」彼はしゃれた黒革スーツケースをあけて、いそいで自分の衣類を詰めにかかった。「わたしはきみの理想の男だ」彼女のほうを見もしないでいった。「この仕事をするには、それを覚えておくだけではいけない。それを信じ、肌で感じ、夢にまで見なくてはいけない。これからわれわれはあたらしい、いま以上の現実をこしらえるんだ」

とはいえ正直な話、「潜入まだあ?」と思いながら読んでるので上巻はだるい。盛り上がってくるのは後半からだ。チャーリィを情報機関に引き込む大きな要因となったジョゼフとの恋情、それ故に彼女は自発的にこの危険な任務を引き受けるに至るのだが、実際に潜入を開始し一人での活動を続けていくうちに、フィクションは事実に裏打ちされ、フィクションではないジョゼフへの恋情は逆にその現実感を失っていく。

プロとして洗練されていけばいくほど、フィクションは現実を侵食していくのだ。意志の努力だったものが、ついには心身の習慣となり、夜も昼も自分以外のものを演じ続けていく。『自分の狂おしい狂気のために、パレスチナのために、サルマのために、爆撃で追われシドンの刑務所で暮らす子どもたちのために。内なる混乱からのがれるため、外へ外へと自分を押し出した。自分の演じている役柄の要素を、これまでになくあつめて、ただひとつの戦闘的なアイデンティティーにまとめあげた。』

「真の演劇は私的ステートメントではありえない、というのをなにかで読んだ」彼がいった。「詩や小説にそれはあっても、演劇にはない。演劇は現実への紅葉を持たねばならない。演劇は有用であらねばならない。きみはどうだ、そう思うか」

中東のテロ問題とイスラエル情報機関を描くスパイ小説ではあるのだが、物語ならではの「現実と虚構のせめぎあい」の要素がスパイ潜入物として抜群に混ざり合い、お互いの要素を引き立てつつ物語の完成度を高めていく。いくらでも悲劇的にできるような設定ではあるものの、物語は全体的に抑制的でありそれがまた面白い作品である。果たしてチャーリィは、無事に潜入任務から帰還することができるのか。敵陣の中にあって、演技をバレることなく遂行することはできるのか。それはそのまま、虚構と現実、どちらが最後には勝利をおさめるのかという問いかけに繋がっている。

本国で出版されたのは1983年のことだけれども、中東問題が依然ごちゃごちゃと長続きしまくっているからか不思議と古臭さを感じさせない。あとはあれかな。結局、スパイ的な潜入捜査みたいなものはテクノロジーがあったからといって現代でも銃撃戦と比べればアップデートされない部分だからかもしれない。