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サイコパス大戦──『レッド・ドラゴン』

レッド・ドラゴン〔新訳版〕 上 (ハヤカワ文庫NV)

レッド・ドラゴン〔新訳版〕 上 (ハヤカワ文庫NV)

レッド・ドラゴン〔新訳版〕 下 (ハヤカワ文庫NV)

レッド・ドラゴン〔新訳版〕 下 (ハヤカワ文庫NV)

トマス・ハリスの傑作レッド・ドラゴンが新訳で登場。原書刊行が1981年、翻訳が1985年には出て、その上2002年には決定版と称して出し直されている。旧訳から時間的にはそれほど経っているわけではないが*1この手の名作は別にいくつも異なる訳があっていいものだろうと思う。そこまで解釈の割れるような作品ではないが。

本書『レッド・ドラゴン』はあの「ハンニバル・レクター」が初登場し、その後ハンニバルシリーズ『羊達の沈黙』『ハンニバル』『ハンニバル・ライジング』として続いていく最初の作品である。シリーズは一度通して読んだことがあるので今回ひさしぶりの再読になったけれども、同じシリーズとはいえ作品ごとに狙いが明確で、読み味が違う中本書はやはり突き抜けて面白いなと思う(映画は映画でまた別)。

映画でこの天才異常犯罪者のカリスマ性にやられた人も多いだろうが、後の作品でほぼ主役級の扱いをされていくハンニバル・レクターが本書では事件に対してほんの少し関与するだけの端役である。だが端役であるが故に、ほんの少ししかその姿を表さなかったとしても、登場人物一人一人の中に彼の存在がずっしりと居残っており、様々な場面で影響が響き渡っていることがわかる。「いないことによってさえ、存在感を放つ」悪役として、後々の作品とはまた違った印象を残す男である。

簡単なあらすじ

本作で天才だのモンスターだのと散々持ち上げられておきながらも、ハンニバル・レクターはウィル・グレアムによって自身の犯罪行為を暴かれてしまい、監獄に囚われ、そこから出ることはできない状態にある。しかし自身がサイコパスであると同時に精神科医としてサイコパス心理に精通した天才でもあるので、解決不能なサイコパス犯罪者が現れると捜査員は彼の助言をあおぎにいってしまう……。今回(というか、初回だが)彼に持ち込まれたのは満月の夜に殺人をおかしその遺体に噛み跡を残す通称<歯の妖精>をめぐる事件、これにウィル・グレアムが挑む。

サイコパス大戦

これは『羊たちの沈黙』とほぼ同様の導入ではあるが、異なるのはその登場人物(とハンニバル・レクターの関与の度合い)だ。ハンニバル・レクターに会いに行くのは、ひよっこ捜査官であるところのクラリス・スターリングではなく熟練のスキルを持つ(が今は引退している)ウィル・グレアム。先に説明したとおり、彼は同時にハンニバル・レクターを偶然と直感によって犯罪者だと見抜き、逮捕のきっかけになった男でもある。当然、偶然とはいえどうやって捕まえたんだと思うところだ。

彼は偶然に『負傷者』という医学書に存在するイラストを見ており、ハンニバル・レクターの部屋にその本が存在し、なおかつ殺害現場の状況がそれとそっくりだったことに気がついたのだ。「そんな偶然があるのか」とも思うが、天才的な犯罪者であったハンニバル・レクターが逮捕されるからには、そうした偶然が関与していなければむしろ不自然である。その上、ウィル・グレアムはレクターをして『きみが私を捕まえられた理由は、われわれが似た者同士だからだ』と評されている。

かろうじて真っ当な側にいるが、彼もまたサイコパスの内側に深く同調し、理解することのできる「サイコパスに近しき者」なのだ。だからこそ現役を既に引退しながらも、事件の陣頭指揮をとらされることになる。犯罪現場にいって、細かな部分の一つ一つに気を配って、サイコパス事件は時として自分自身にすら自分のしていることがわかっていないことがあるものだが「何を考えたのか」に深く同調していく……。

 グレアムは三羽のペリカンが干潟の上を並んで飛んでいくのを見つめた。「モリー、知能の発達した異常者、とりわけサディストは捕まえるのがむずかしんだ。理由はいくつかある。まず、これといった動機がない。つまり、動機の面から犯人を追えない。そしてたいてい情報提供者がいない。ほとんどの逮捕の裏には、捜査関係者より多くの密告者がいるものだけど、今回のような場合、情報提供者はまず出てこない。犯人自身にも自分のしていることがわかっていない可能性もある。だから証拠をとにかく集めて、そこから推定するしかない。犯人の思考を再現するんだ。パターンを発見する。」

真相を追う過程はミステリ形式だが、実際には<歯の妖精>側の視点もすぐに挟まれることになるが、グレアムの推察精度の高さは彼が捜査官であることを忘れてしまうぐらい高いものだ。三者三様のやり方で事件についての思考を推し進めていくので、いわばサイコパス(ウィル・グレアム)vsサイコパス(歯の妖精)vsサイコパス(ハンニバル・レクター)状態である。ほぼほぼサイコパス大戦じみた内容になっていくのが途方もなく面白い(ハンニバル・レクターはちょい役だけど)。

元からサイコパス極まっているレクター先生や歯の妖精さんはともかくとして、ウィル・グレアムは操作が進むにつれてうぐぐこのままでは……と自身の中のサイコパス性と戦う葛藤がはさまれていくのもヒーロー物としては素晴らしい。英雄の本質について、『神話の力』でジョーゼフ・キャンベルは次のように言っているが『「英雄の旅の本質は、そんなものじゃない。理性を否定するのが目的ではない。それどころか、英雄は暗い情念を克服することによって、理不尽な内なる野蛮性を抑制できるという人間の能力を象徴しているんだ」』これを体現するかのようなキャラクタだ。

一方、歯の妖精さん視点の物語は、先に引用した「犯人自身にも自分のしていることがわかっていない可能性もある」、常人にはまったく理解できないイカれたサイコパスが、それでも自分なりの理屈と動機をもってさまざまな行動を起こす描写が特に良い。外部の人間からすれば「一体何でこんな意味不明なことをするんだ……」と絶句するしかない状況でも、それをやった「狂った」と人から見られている当人からすれば、きちんと理由もあれば動機もあるのである。

サイコパス大戦の面白いところは、まったく同じサイコパスは一人もいないところにある。みなそれぞれのこだわりと高い能力を持っている。だからこそ多種多様なサイコパスが入り乱れ、理解できない思考回路をお互いが読みとろうとすると独特の緊迫感が生まれることになる。多種多様なサイコパスが入り乱れる作品として、本作はいまだに随一の面白さを誇っていると今回あらためて感じた。

「異常者を異常者として描きながら、一般的な読者にも理屈としては理解できる」よう描くこと、異常な知能と観察能力を持った人間を描くこと、そんな相手と対峙しながらも一歩も引かずに自身の責務を果さんとする人間を描くことなどなど、僕がこのハンニバル・シリーズで好きなのは「描写」そのものなのだが、そればっかりは読んでもらうことでしかうまく伝えられないのが残念ではある。

ちなみに、完全版の際についた解説+今回の新訳にあたっての訳者あとがきが新たに追加されているのでご安心を。そのせいで上巻に滝本誠さんとオットー・ペンズラーさんの解説、下巻に桐野夏生さんの解説+訳者あとがきが載っていてなんというか解説もりだくさんの本になっている。

サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅

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*1:訳の評判は悪かったようにも思うが全然覚えてない