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君は世界の終わりを前にしておっぱいの計算をするか──『世界の涯ての夏』

世界の涯ての夏 (ハヤカワ文庫 JA ツ 4-1)

世界の涯ての夏 (ハヤカワ文庫 JA ツ 4-1)

第3回ハヤカワSFコンテスト佳作受賞作品。佳作受賞だから──というよりかは、今回は応募作全体を通して飛び抜けた物がなかったとする評が(主に東さんと塩澤さんの)既に選評の形で上がっており、期待はそこまでしていなかったのだが、これがけっこう面白い。確かに傑作! 大賞! ドーン! という作品ではないが、読み終えてみれば確実に味わえる部分の多い作品で、じわじわと広がってくる良さがある。

世界観について

地球を侵食しながら巨大化する謎の異次元存在<涯て>が出現し、人々は世界の終わりを常に意識しながら日常を生きている──という世界観。ただ、その<涯て>を解明に向けて人類が奮闘するとか、地球脱出の為にがんばるなどという一大スペクタルなストーリーではなく、描かれていくのは基本的にこの世界で過ごす人々、その空気。こんな世界でいかにして生きていくのか、<涯て>とはいったい何であって何でないのかと問いかけるような、世界そのものについての話だといえる。

疎開先で出会う少年と少女の物語、終末を前にして3Dキャラクタのおっぱいを大きくするか否かについて悩み、世界が終わりかけている今そんなことを悩んでいる意味があるのかとさらに悩む3Dデザイナーのノイ。『世界が存在する宇宙について、世界は多くのことを学んでいた。』というように一人称世界で思考する世界ちゃん(世界(sekai)という名前の人間ではなく、worldの方の世界だ、痛ネームでもない)の主に3つの視点から展開していくが、あまり大きなアクションは起きない。

『世界の<終わり>が始まったのは、もうずいぶん昔のことだ。』という語りからもわかる通り、この世界において世界の終わりはもう長いことそこにあるものだ。だからこそ、ことさらわーぎゃーと騒ぎ立てるようなものではないし、日常の中に「終わり」が常に溶け込んでいる。終末を意識しながらも日々を生きていかねばならぬ人々の諦観とちょっとの抵抗、なんともいえない描写は素晴らしいものだ。

 外見的には、球だった。はじめ、ほとんど無に等しいサイズだったそれが、時に急激に、時にゆっくりと、大きくなった。今は、半径三百キロメートルほどになった球体が、半分を地表の上に、残りを地面の下にしていすわっていた。いくつかの国にまたがって、世界は土地と海とを侵食されていた。
 どうして<涯て>が出現したのか、今はもうわからない。なにしろ唐突だったし、始まった辺りはすぐに<涯て>に飲まれてしまった。<涯て>に飲み込まれたものを、世界は取り戻すことができない。それは喪失だった。死だった。終わりだった。

世界についてのパートでは、この世界で人類がいかにして対抗策を打ったのかまた<涯て>がどのようにこの世界を処理しているのかが両方の視点から語られていく。これはまるで異質な理屈を持つ存在がお互いがお互いを分析し、処理しあっているようなもので、一種のファーストコンタクト、異種知性対決のような面白さもある。「世界ちゃん(これは僕が勝手に呼んでいるだけだ)」にとってヒトは構成要素の一つであるから、ヒトの活動はただの観察対象・利用対象に過ぎないし、大きな物事が動いている中でヒトはただ翻弄されているだけのように見えるのがまた良い。

一方で、3Dデザイナ・ノイの視点はなかなか世知辛い。特に根拠となるデータがないままに3Dモデルのおっぱいを大きくするよう要請されてとまどったり。作者のつかいまことさんがゲームデザイナーであることも関係しているんだろうが、ここの描写はやけに細かくて無茶な振りをしてくる上司などが出てくると「これを今の上司に読まれて大丈夫なのか(モデルにしたかどうかに関わらず、心象を悪くしそうだ)」と心配になってきてしまう(小説家デビューしたことは言わないのかもしれないが)。

世界の終わりが見えている段階でおっぱいを大きくする計算をする意味を問いかけなくてはいけないところに、この時代の「どうしようもなさ」が溢れている。

 ノイは、表示したままのAIチャートに目をやる。<涯て>を食い止めるために使われているグレーの領域を見つめる。そこで、世界を守るための計算が行われている。文字通り、世界の存続を賭けて、災厄に対峙するための研究に、デジタルリソースが割かれている。比べものにならないほどわずかな領域ではあるけれど、その残りの一部で、ノイたちはおっぱいの計算をする。その上で、ほとんど誰も気がつかないような違いにあくせくする。そこにどういう意味があるのか、わからなくなった。

実際には現実世界だってそのうち全てが消滅することを考えると意味なんかない。現実でそうした意見が支配的にならないのは、終わりがまだまだずっと先だからだろう。おっぱいの計算に意味はあるのか──この問いかけはこの世界だからこそよく響く。ただ、終わりを意識しながら日々を生きるというのは新しいわけでもないし、そこに関して飛び抜けたものがあるわけではない。つい最近も、近接作品としては『我もまたアルカディアにあり』とかがあるしね。huyukiitoichi.hatenadiary.jp
この作品の肝といえる部分は、少年と特異な少女が出会い恋に落ちていくパートと、それがノイの元に繋がって<涯て>とこの世界の一旦の終着点が明かされていく過程にある。それはある意味では『ハーモニー』への別答ともいえるが、アイディアそれ自体よりもボーイ・ミーツ・ガールの淡い恋心をそこに接続してみせる魅せ方がいい。

終わりを前にしておっぱいの計算をする意味について、ノイは自分なりの答えを出し、それとはまったく無関係に世界は新たなフェイズへとうつっていく。世界そのものにとってのヒト一人が大した意味を持たないように、出てくる人物たちにはみなあまり突出したところはないけれども、だからこそその選択と諦観ともいえないような現状追認はどこか響くのだ。

おわりに

最初に書いたように、傑作というわけではない。本編230ページはこの手の物語を描くにはかなり短いように思うし、ヴィジュアル等世界観がいいだけにこの何倍も規模の大きな話として展開したらもっと面白かったのにとも思う(ただ、その場合本作の良さも幾らか失われてしまうかもしれないが)。次にこの二倍ぐらいの分量のものを書かれたらどんなものになるだろうと楽しみにさせる作風だ。

ちなみに、巻末に収録されているインタビューがcakes上で読める。cakes.mu

我もまたアルカディアにあり (ハヤカワ文庫JA)

我もまたアルカディアにあり (ハヤカワ文庫JA)