- 作者: パオロ・バチガルピ,中原尚哉
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2015/10/22
- メディア: 単行本
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水利権をめぐる国家は州ごとに分断され、軍隊まで持つようになった水道局同士の銃撃戦、拷問などが頻発するハリウッド並のエンターテイメント大作であるのに加え、破滅が免れ得ない世界で誰が、どんな価値観を持った人間が生き延びるのかを問いかける作品でもある。今年の海外SFとしては間違いなくベスト級の出来だろう。
あらすじとか舞台とか
舞台となるのは近未来のアメリカ、コロラド川周辺。地球温暖化によって慢性的な水不足が続いており、水利権の奪い合いが激化している。実際、現実のコロラド川周辺は灌漑農業が発達しダムが建設された結果過剰取水で下流付近はほとんど干上がってしまっている。本書はそんな状況をもっと推し進めた世界を描く。水が届かなくなってしまえば実質州が一つまるごと渇きに沈む=人々はその地を追い出されることを余儀なくされるわけで、もっかのところ人々最大の関心事は「水の相場と堅実な確保」「水の利権を自分たちの州がちゃんと確保できるのか」にある。
アメリカの水利権は歴史的に先取主義をとっており、「より古い契約書が効果を持つ」としている。州同士の対立が深まっている状況も合わさって、自分たちが多少見ずに余裕があったとしても自分たちより下位の利権しか持っていないやつらが水を取水していたら「ワシの縄張りじゃい!」とミサイルをぶち込みに行く(自前の兵力で)。そんな権利絶対主義な時代ではあるが、インディアンの時代に交わされた契約書などを持ってこられると一転ミサイルを撃ちこまれる側になってしまうのだ。
物語は3人のパートを交互に展開していくが、1つは南ネバダ水資源公社でコロラド川の権利を持ち、不法取水している側へミサイルを撃ちこむ権利を持っているキャスリン・ケース及びその子飼いの部下アンヘル。2つ目に、水資源をめぐる問題を中心に取り上げるジャーナリストのルーシー。最後に、テキサスからの難民であり、水不足に喘ぎ日々の水相場に翻弄される少女マリア。みなそれぞれ社会における所属している階層が異なるが、その3人が「現状のコロラド川周辺をめぐる水利権状況を一変させる権利書」を中心として大騒動に巻き込まれていく。
水の利権を失うことは、イコールそのままその地を離れなければいけない、場合によっては死にも等しいのだから、誰にとっても「最古の歴史を持つ水利権書」は莫大な価値を持つ。ネバダ水源公社側からすれば、自分たちがうまくプレイしてきたゲームをひっくり返されかねない危険物であるし、ルーシーは自身が暮らした、今渇きに沈もうとしている場所を守る為の切り札になる。。マリアは自分が生き残ることで精一杯で利用できるものは何でも利用する。
錯綜する理想と価値観
物語の枠組みは「誰が最終的に最古の水利権書を手にするのか」だけだともいえる。だがその過程で重要になっていくのは、というか読んでいて面白いのは、アンヘル、ルーシー、マリアがそれぞれ「どのようにこの現実を捉えているのか」という視点だ。この世界に対する価値観、と言い換えてもいいかもしれない。たとえば常に水不足にあえぎ、今もまた身体を売るなどしてろくな生活をしていないマリアだが、そんな現実を送ってきたからかも知れないがその現実観はシビアだ。
父親の頭がとらえるものごとと、マリアが実際に経験することはずれはじめていた。ここはアメリカで、自由の国で、なにをしてもいいのだと父親は言った。しかし父親と車で移動したのは壊れかけたアメリカだった。ニューメキシコ州境には噂どおりにテキサス人がすずなりになっていた。父親の頭のなかのアメリカとはまったくちがっていた。
その目は老いたのだ。老人の目だ。
彼女は自分の父親が「在りし日のアメリカ」を幻視し、そこにとらわれていることを早くから気がついている。最初こそ父親に対して絶望を覚えているだけではあるが、それがいかに絶望的で、未来が見えない状況であったとしても、真実の世界を見て受け入れなければ生き残ることはできないのだと段々と気がついていく。
「これだけは頭にいれておけ、マリア。正しいとかまちがってるとか、そんなことを気にしてたら、おまえも親父さんみたいに死ぬぞ。親父さんも弁護士みたいな理屈をよくこねてた。最高裁が判決を出したら、州間高速道路はまた自由に行き来できるようになるってな。おまえもおなじように、なにが正しく、なにが間違ってるか考えるだろう。でもそんなのは頭のなかのルールだ。実際のルールは強いやつが決める。
マリアが直面するのは現実のルールだ。それは理想から生まれるのではなく、ただただ現実の状況から逆算されて生まれてくる。どれだけ理想が高かろうが、どれだけ理屈が正しかろうが、現実が当てはまらないのであれば何の意味もない。それはこのような「資源不足」を描いた作品ならではのものだろう。どれだけの理想を、理屈を述べようが、「水がなくなれば、みんな終わり」なのだ。理屈も何もない。
一方で、理想を持って生きている人間もいる。マリアを金で買うわけではなく、お互いの恋愛感情からでないと抱きたくないと高潔な精神を発揮する男。主要登場人物の一人であるルーシーは最古の水利権書をめぐって殺された友人を目の前にして、安全を求めず、自分自身の理想である真実を追求することを決意する。
すべては滅びる。砂に埋もれ、海に没し、焼け野原になる。どこまでも続く。世界の均衡が敗れたのだ。あらゆる都市が存立の基盤を失い、崩壊してさまざまな悲劇を生む。
それがいつまでも続くだろう。終わりはないだろう。
ならば逃げても無駄だ。全世界が燃えるのなら、ビールを片手に、恐れることなく立ち向かってもいいだろう。
今だけは恐れることなく。(……)
ここが故郷だ。
だから逃げない。
彼女の現実認識は正しいものだ。「すべては滅びる」のだと。
であればこそいつまでも逃げているわけにはいかない。死を覚悟して、立ち向かうのだ。だが、正義感や理想といった、「こうであって欲しい」という思いは現実を歪ませる。理想が現実を歪ませ、そのまま理想に沿うようにして現実をむしろ適合させてしまう例もある。もしかしたら、変えられる現実があるのに「変えられない」ことを現実だと思い込んでしまっていることだってあるのだ。マリアが現実だと思っているものは、実際はより悲観的に思い込んだ現実でしかないのかもしれない。だからこそ、誰の価値観が正しい、間違っているという判定は物語では下されない。
アンヘルの価値観、現実観はマリアのものと近い。『キャサリン・ケースは世界をモザイクとして見ていた。データを集め、そのデータから自分好みの絵を描く。しかしアンヘルはちがう。絵を描くのではなく、すでにあるものを見る。』違うのは、立場か。マリアは自分が生き延びるために動くが、アンヘルはキャサリン・ケースの為に働く。三者三様の目的から彼らは最古の水利権書をめぐって争っていく物語の枠組みはシンプルだと書いたが、そのシンプルな枠組みと同時に進行していくのは「誰の現実/理想観が勝つ/生き延びるのか」という価値観サバイバルでもあるのだ。
水資源の枯渇という、いつか起こりえる危機を描くと共に、そこで「人々がどのように現実を見据えるのか」を多様な観点から描いてみせる。理想と正義感に燃えるルーシーの在り方、現実を見据え、自分が生き延びるために行動をし続けるマリア、既にあるものを見据え、ピースをあるべき場所へあてこみ主人の為に働くアンヘル。「誰が正しいのか」とか、そういう話ではもはやなく、まるで現実がそうであるようにして、勝利が誰にもたらされるのか最後の最後まで予想がつかない。