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幻でありながらも物語を支配し続ける──『幻の女〔新訳版〕』

幻の女〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

幻の女〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

『ミステリ・ハンドブック』第一位、『東西ミステリーベスト100』では第二位、その他オールタイム・ベストランキングで幾つも上位に残っている『幻の女』が黒原敏行新訳で刊行。ミステリについては不勉強なものなので読み終えたあと解説を読んで「そんなに有名な作品だったのかぁ」と驚いたが、確かにこれは隙がない面白さだ。冒頭から書名そのまんまである「幻の女」の魅力にガッと持って行かれ、あとはその幻影を追い求めるうちにあれよあれよとページを捲り続けてしまう。

物語は、『夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった』という印象的かつ有名な(多分)一文からはじまり、一人の不機嫌な男がバーに入って、見ず知らずの女に声をかける。女は、パンプキンにそっくりな妙な帽子をしており、受け答えやこちらを見透かしているような言動など全てがミステリアス。会話の一つ一つにキレがあり、その後すっかり物語から退場してしまうが、小説全体を支配し続けるだけの魅力が短い描写の中に詰め込まれている。

 彼は三分の一ほど微笑んだ。女には教養があるようだった。今夜やっているようなゆきずりのつきあいを、取り澄ましすぎたり、はめをはずしすぎたりしてひどい結果に終わらせることなく、上手にやってのけることができるのは、教養のある人間だけだろう。この女はどちらにも偏らず、バランスを保っていた。逆にいえば、もう少しどちらかに偏っていたなら、もっと鮮明に記憶に残ったはずだ。かりにもう少し品が悪ければ、女成金風の粋奔放な魅力が印象づけられたかもしれない。逆に、もう少し品がよければ、聡明な印象が強くなり、そういう点で記憶に残っただろう。しかし実際のところは、そのふたつの中間で、二次元的な浅い印象しか残さないのだった。

軽く飲み、二人でショーを見て、別れ際に女は彼に向かって『もう気が晴れただろうから、大事な女と仲直りしたら?』と全てをお見通しのように言って、心地よく二人は別れていく。ここまでならただのいい話だが、帰った彼を待ち受けていたのは離婚の合意がうまくいかず喧嘩をして家を出てきたばかりの嫁の死体だった──。

彼は他に女をつくっており、離婚を望んでいたが嫁にそれを拒絶され、断絶状態にあった。それに加え、ほぼ完璧な色合わせで構成されたおしゃれであることが一目でわかる彼の服装──色は青──のうち、ネクタイだけは頓珍漢な色で、殺害に使われたのは青色のネクタイだったのだ、というあたりが個人的にはけっこうお気に入りの導入。根拠にするには弱いが、心情は一気に「こいつなんじゃ……」と疑わせる。もちろん、彼は第一容疑者であり、章題に使われる「死刑執行日の○○日前」というのは彼の死刑執行日のことであることがすぐにわかる。

問題は、彼は犯行時間に明らかに女と会っていたことだ。なればその女に証言してもらえば全てはかたがつく。しかし、警察が彼と女を見ていたはずのバーやショー、レストランの店員へと話を聞きに行っても誰も女のことを覚えていない……。それどころか、この男が一人で来たのだと証言してみせる。彼自身、名前すら聞かなかった神秘的な女のことだ。最初こそ自分は確かにあの女と共にいた、あの女は実在の存在だと信じているが、多くの人間に嘘つきだ、助かりたいが為にでっち上げているのだと非難され続け、刑も宣言されるうちに次第に自分自身への疑心暗鬼にも陥ってしまう。文字通りあれは「幻の女」だったのではないかという疑惑が募ってくる……。

彼=ヘンダーソンにとっては、自分の命の為になんとしても見つけなければいけない幻の存在であり、彼のいうことを信じ、行動を起こす刑事バージェスにとってもそれは同様である。物語が進むに連れて、他に幾人もがそれぞれの動機から「幻の女」を追っていたことが明らかになっていく。そこにいないにも関わらず、一環して物語を支配しているというのはそういうことだ。だんだん事実が明らかにつれ、物語の性質もまた幻想的なものからスリリングなものへと変質していくのもまた楽しい。

描写は美しく、セリフのやりとりはどれも力強く引き込まれる。僕が好きなのは次のセリフである。『こういうのって男の人にはわからないわね。宝石や、歯の金の詰め物なら真似されてもいい。だけど、帽子はだめなの。』──そうなのか……まったくわからんし実態とは違うかもしれないが、そう断言気味にいわれると納得してしまう強靭さがある。最初に翻訳版が出たのは1976年、原書が出たのは1942年のことだが、70年以上が経ってもそういう部分って色褪せずに残り続けるんだよね。

黒原敏行さんの訳の実力はピカイチなので楽しみだったが、本書には池上冬樹さんの解説に加えどのような訳の変更を行ったのか(あるいは行わなかったのか)という解説をする訳者あとがきまでついていてよかった。名人芸の一端に触れられるはずだ。