基本読書

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一人の優れたエンジニアの物語──『χの悲劇 The Tragedy of χ』

χの悲劇 (講談社ノベルス)

χの悲劇 (講談社ノベルス)

森博嗣さんによるGシリーズ第10作目。ついに10作目まできた。

とはいえここから『ψの悲劇』、『ωの悲劇』と続いていく(元ネタの『Xの悲劇』『Yの悲劇』『Zの悲劇』になぞらえているわけですな)「悲劇三部作」の始動篇であって、これまでのGシリーズ作品とは登場キャラクタからして大きく入れ替わっているわけで、本書から読み始めるのもいいだろう。

ロボットや人工知能技術が発展し、登場人物の経歴などからこれまでのシリーズからある程度の時間が経っていることが推察される。さらに、語り手は真賀田四季の下で働いていたプログラマの一人にしてアニメでも強烈な印象をのこした島田文子さんになっている。彼女は香港に存在するトラムという路上を移動する電車の中で発生する殺人事件に巻き込まれ、かつての縁がからみつくように陰謀や社会の変化に遭遇することになる──というのがおおまかなストーリー/あらすじである。

優れたプログラマ/エンジニアである島田文子の考え方、語り方は独特だ。遠くの世界を見据えているというよりかは、不可避的に地面に存在する穴を見据えて、これをどのようにして塞ぐのかを考える実際/問題解決的な物の見方である。なぜこの穴は存在するんだろうとか、こういう理由で存在するのではないか、と考えるよりもまずはその現実を受け入れて対処法を考えようとする。極端な割り切り方というか、そんな特性が彼女の立ち振るまいや考え方のすべてに現れていておもしろいのだ。

美しい風景や、リアルな人間関係にほとんどの興味をもたず、ただヴァーチャルな世界に自己を仮託していく彼女の在り方は現在のリアリティというよりかは未来のリアリティのようだ。彼女を中心とした、とあるデータをめぐるサイバー上の攻防は具体的な技術描写どころか専門用語すらほぼ使用せず(ハッキングなどの言葉すら出てこない)抽象的に、それでいてハードに表現していて素晴らしいと思った。

事件をメインに──というよりかは、事件を端緒として真賀田四季が変化をもたらしたこの世界のうねりを体験していくことになるので、当然シリーズ・ファンは必読の一冊である。僕は最後まで読んで、島田文子が貫徹した考えに思わず泣いてしまった。というわけでいちおう未読者向けの感想をひねくり出してみたが、こっから先はネタバレ・ゾーンである。ただの感想の垂れ流しであるので、読んでから読め!

Xの悲劇 (角川文庫)

Xの悲劇 (角川文庫)

リアル/バーチャル

後半の展開を思えば当たり前だが、リアル/バーチャルの対比が今回は随分と目立つ。どうしようもなく我々は躰にしばられている。飯は食わねばならないし、嫌でも老化していくし、けっこう簡単に死んでしまう。この時代ではまだ癌も克服できないようだ。真賀田四季に、島田さんは今でも強い影響を受けている。『切り離せない躰という重荷を、今ひしひしと感じた。これまでで一番強く感じた。残念だ、ではなくて、しかたがない、でもない。どうにかならないのか、という気持ちが最も強い。』

すべてを切り離してみせよう──と四季はかつて語ったことがある。『空間と時間からの決別こそ、自己存在の確定。(『四季 冬』)』言葉の選択の一つ一つに四季の発言との関連性を読み取ってしまう。

天才とは

島田文子は自分が天才だと言われて自嘲的に『自分は天才ではない。天才の下で仕事をした経歴を持つただのエンジニアだ。』と語ってみせる。ここは好きなシーンだ。

たしかに、真賀田四季を天才とした場合相対的評価としては「自分は天才ではない」というのは正しい。今回彼女がやってみせたことも、たまたま真賀田四季の下で働いていたことが鍵になっている。真賀田四季が成し遂げようとしている壮大な計画の中で、島田文子はこちょこちょと泳いでいるにすぎない。

とはいえ、それも真賀田四季と比較した場合で、一般的な能力と比較すれば彼女はやっぱり天才だった。反発したのは、「正しく評価されていない」からではなかろうか。自分がどの程度の才能を持っているのか、正確には理解されていない。誰にもできないことをやったという表面的な事実のみで「天才だ」と表現されている。

だからこそ第4章にて『「どんな人間でしたか?」』と問いかけ、『「貴方は素晴らしい才能を持っていた。天才だった。私は貴方が好きよ」』と正しく評価を受けた時に、言葉にならず声を上げて泣いてしまうほど良かったと思えたのではないだろうか。「それを本当の意味で評価しえる人に、認めてもらいたかった」んだと僕は思う。研鑽を積んで、世界の誰も自分を正しく評価できないところまで上り詰めることは達成感を与えるものだが、誰にも理解されないのだから孤独でもある。しかし、真賀田四季ならばその評価を与えることができるのだ。

誘拐

それにしても真賀田四季さん(いきなりさんづけか)は自分が価値のあると感じた人を肉体の枷から解き放って一人一人自陣営に引き込んでいるようだが、マメなもんである。最後の「貴方は、誰?」という問いかけは『すべてがFになる』から連綿と続いている問いかけの一つで、今回はどちらが放ったものなのかわからなくなっているが、これはなんとも不思議な状況だ。わからないなんてことがありえるのだろうか?

百年シリーズとWシリーズが顕著だが、時代が進み技術が発展することで物事が曖昧になっていく部分がある。それはたとえば「生きている/死んでいる状態の区別がつかない状況」だったり、「人間とは何か」だったりする。人間は人間だろ、と現代人は思うわけだが、身体を機械に置き換えていくと「いったいどのタイミングで人間ではなくなるのか?」という問いかけが生まれてくるわけである。

「真賀田四季が真賀田四季であること」「島田文子が島田文子であること」というのも、ことがここ(やWシリーズなど)に至ってしまうともはや何をもってしてそれを証明するのか、する意味があるのかといった感もある。『四季』での語りなどをみるとあくまでも「自己存在」への固執は強いようにも見えるが……(それをどうとらえるかにもよるだろう)。「また会おうね」という別れの言葉が果たされるのを祈ろう。

各キャラクタのその後が提示される、まさに転換期らしい作品であった。

その後

この後期三部作は、時系列が戻ったりはしないだろうからこの時間のまま進んでいくんだろうが、島田さんはお亡くなりになってしまったし、また別の人間が四季さんにスカウトされていく話になったりしたりして。Wシリーズも気になるし、Gシリーズも気になる。しかしどれも展開的に激動だから、Xシリーズのあのほのぼのとした古典的な雰囲気もなつかしくなってくる。『ダマシ×ダマシ』を楽しみに待ちたい。