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歴史が失われた国で立ち上がる新たな神話──『イエスの幼子時代』

イエスの幼子時代

イエスの幼子時代

意外なことに本書が一種の近未来ディストピア小説であるという評を目にして読んでみたが、これはなかなか捉えがたい作品だ。捉えがたいを別の表現でいえば寓話的で無数の解釈が可能ともいえるし、逆にぼかし過ぎて最後まで読んでも何がなんだかよくわからん作品だともいえる。とりあえず個人的にはおもしろかった。

世界観とか

物語の舞台となるのはノビージャという町だ。人々は作中では明かされることのない何らかの理由によってこの町にやってきて、過去を捨て(記憶を捨てて)、新たな名前を与えられここで新しい人生をはじめている。メインで描かれる初老の男シモンと5歳(ということにされた)の男の子ダビードは血のつながりこそないものの道中で出会い、シモンはダビードが行っている母親探しを一緒に手助けを行うことにする。

この二人の会話も曖昧にぼかされており、要領を得ない。なぜノビーニャにやってきて、滞在しなければならないのか、お母さんが見つかった後はどうすればいいのかとダビードが問いかけてもシモンは「他のみんなと同じ理由でここにいるわけだ。わたしたちは生きるチャンスを与えられ、そのチャンスを受け入れた」とか、「ここ以外にどこがあるんだ? ここではないどこかなどないんだよ。」と答えるばかり。

これは子供に言い聞かせているだけともいえるが、その通りの意味なのかもしれない。たとえば他の場所は汚染なりなんなりで住めなくなり、ノビーニャでやり直すことを一部の者だけは許可されている、などの理由がいくつか思いつく。その場合はたしかに近未来(かどうかはともかく)ディストピア小説であるともいえるだろう。

あらすじとか

母親を探すのだと二人は言う。しかし問題は名前もわからず写真も持っておらず、顔もわからないことだ。それでもシモンは「理由は説明できないが、見ればわかるという確信があるんだ」といい切って強引に推し進める。正直、見ず知らずの子供を助けるために粉骨砕身し見ればわかるんだ俺はと喚き散らす様はほとんど狂人である。

おかしなのはシモンだけではない。町の住人はやってきたシモンに対して空腹感をおさえろ、内なる犬を飢えさせろという。君の欲望をおさえるのだと。

「この国に来てなにがいちばん驚いたかわかるか?」(…)「まるで生気がないことだ。会う人会う人、みんな実にきちんとしていて親切で、善意にふあれている。悪態をついたりカッとなったりする者もいない。酔っ払いもいない。声を荒らげる者すらいない。パンと水とビーンズペーストだけの食事で生活し、充足していると言う。人間という生き物として、そんなことありえるか? きっときみたちは自分にも嘘をついているんだろう?」

ダビードを養うため船場の荷役の仕事についたシモンは、この街に存在する奇妙な認識と齟齬をおこしていく。船場の同僚たちも、妙にインテリで議論も筋道だっているのだが話がまったく咬み合わない。シモンが「我々はこれをなぜ運んでいるんだ? どんな全体図の中にある仕事なんだ?」と問いかけても、同僚は「仕事が無いとすることもなく公共のベンチに座って時間を潰さにゃならんし、そもそも生きていくために必要だろ」と「仕事をする意味」については答えても「なぜ」を問わない。

歴史のない世界

これに対してシモンは、全体像を見据え現在の作業を能率よくすることで、無駄をなくすべきだと主張するが彼の同僚は俺たちの仕事がなくなってしまうじゃないかと反論する。シモンが「お前たちは歴史を捨てたのか」と問えば、彼らは歴史は現実に感じられるような顕現を持たぬものであり、「過ぎ去ったものの中にわれわれが見るパターンに過ぎない」(だから歴史は実在しない)と無茶な理屈を言い張る。

「十年後も、今日とまったく同じ方法で荷降ろしをしていたら、歴史は実在しないと認めるかい?」
「いいとも」彼は答える。そのときは現実の力にひれ伏すよ。歴史の評決に従うと言ったらいいかな。

ようはこのノビージャを含む「過去を捨てた国」は同時に歴史を捨てた国であり、現在が絶え間なく続く一種の「ユートピア」のようなものなのだ。対してよそ者であるシモンとダビードはなぜかそうした状況に馴染めず、だんだんとこの世界の人々とのズレを実感することになる。現実であればシモンらの意見が正しいが、この世界では彼らは圧倒的な異分子だ。果たしてこの世界は本当に変化も歴史もない世界なのか? それは永遠に回り続ける「ユートピア」なのだろうか?

噛み合わない会話は喜劇的であるし、同じ人間であっても認識の異なる人々が同じ世界で同居しているという意味では悲劇的というかホラー的でもある。このあたりのクッツェーの描写はさすがのもの。

よくわからないことだらけ

しかし物語はいろんなことがよくわからないまま進んでいく。それが実際の「新たな」聖書やら神話やらを読んでいるようでおもしろくもあるし、もどかしくもある。

シモンがここまでダビードに固執する意味もわからないし、途中シモンが出会い真の母親だと確信するイネスは不自然にあっさりとダビードを引き受けることを決意するしと疑問が次々と湧くが、本書が「イエスの幼子時代」という書名で、作中人物の名前が軒並み聖書モチーフであることを考えるとこれも当然のような気がしてくる。

ダビードはイエスでありダビデであり、均質性が異常に高まった世界に「波乱」をもたらす存在であることは明らかであり、周囲の人間に直観をさせ付き従わせるぐらいのことは普通にやってのけそうである。物語の後半、異分子であることが決定づけられた家族は社会からの逃走をこころみるが、そこまでいくとダビードの特異性は明らかになっており──という感じで物語は「実に気になる」ところで終わっている。

この逃走/旅を経ることで、イエスが従えたような従者や、多くの考えに触れこの世界に何らかの革命をもたらすのだろう。そうなると違和感を憶えた部分にも納得がいきそうな感じはあるが、このあとは続篇の『イエスの学校時代』へと続くようだ。

おわりに

異なる世界認識を持つもの同士のちぐはぐな会話、人々の「世間」に受け入れられぬ者が自身の認識を守るため旅に出るという構図は愉快かつ悲劇的でおもしろいし、ダビードの教育方針をめぐって母親と父親が言い争う場面なんかは子育てをしている/してきた人にはぐっとくるかもしれない(嫌気がさすかもしれないが)。何より次への「期待」は持てるので、それも含めてたのしんでもらいたい。