デボラ、眠っているのか? Deborah, Are You Sleeping? (講談社タイガ)
- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/10/19
- メディア: 文庫
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移行期ならではの魅力
他シリーズとの関連もあって、僕はWシリーズの何もかもが最高だと思ってしまうのであるが、それはそれとしてSFとしての魅力について考えてみると「広大な移行期」を描いているからこそのおもしろさがあるのではないかと思っている。たとえば、この世界では人間は細胞を入れ替えることで飛躍的に寿命を伸ばしているが、その技術はまだ確立したばかりで、どの程度生きるのか、仮に無限に生きられるとして、それが「社会にどのような影響をもたらすのか」を探っている段階である。
また重要な要素として上げられるのが、人間とほぼ見分けのつかないウォーカロンと呼ばれる人工生命の存在で、彼らの存在は常に「人間をどう定義するのか、人間の独自性とはどこにあるのか」という問いを突きつけてくる。そうした問いかけを軸にしながら、仮想現実、人工知能など様々な領域で起こっている「価値観のシフト」が描かれてきたわけであるが、本書ではついに「電子空間」が議論に上がることになる。
夢のような形で他者へと干渉する、あるいは他者の身体を一時的に操作する「デボラ」の存在が確認されることで、信号を送り込み他者の意識をのっとり/撹拌することができる、電子空間上に偏在する特殊な存在"トランスファ"が想定される。そんなものが実際に存在するのか、存在しえるとしたら技術的にはどのような条件が揃えばそれを達成できるのかが淡々と議論されていく過程には、多くの場合そうした技術は「前提」として描かれてしまうサイバーパンクにはないワクワク感がある。
複雑さを複雑なまま描く
電子空間(仮想世界)でつくられ、そこで目的を与えられ行動し続ける存在がいるとしたら、仮想世界上の生命、ウォーカロンに人類に人工知能と、このWシリーズ世界は多様な勢力で溢れているといえる。別段それらは敵対しあっているわけじゃないし、たとえば人類は人類同士、人工知能は人工知能同士で戦っているかもしれない(実際そう描かれる)。互いに利害関係があり、勢力図は簡単に描けるものではないが──このシリーズはその複雑さを、複雑なまま捉えていっているように思う。
ハギリは有能な研究者とはいえ人間であり、何よりただの個人だから、世界の全体など把握できるはずもない。しかし、勢力図を塗り替えるような重大事件に居合わせたり直接的間接的に関与していくうちに、断片的ながらも全体像が把握できてくる。人工知能が生み出そうとする新たな社会、ウォーカロンと人間の垣根が消失することによる新たな価値観、電子空間に存在する広大な領域と、そこに存在する新勢力──。
人工知能、仮想現実、仮想世界、ウォーカロン、人類、そのすべての変遷と思惑が渾然一体となって「誰もかつて経験したことがない、予測不可能な社会」へとうねりを上げて走っている。ハギリを通してそうした"個人では制御できない時代の大きなうねり"を体験していくと、個人の物語を超えた、「長大な時間軸の中で展開する、この世界そのものの物語」を丸ごと追体験していっている興奮に襲われる。これぐらいの本の長さを読むのにかかる3倍ぐらいの時間をかけて、「一体何が起こってるんだ……」と呆然と考え込みながら読んでしまったが、情報量がとんでもないのだ。
Wシリーズの中では本書に一番興奮させられたが、恐らく次がもっと凄いだろうし、その次はさらに凄いのだろうと思わせられる、底知れぬシリーズだ。的確に表現する言葉が今は出てこないな……。以下では他シリーズと関連した話を展開する。
赤目姫の潮解 LADY SCARLET EYES AND HER DELIQUESCENCE (講談社文庫)
- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/07/15
- メディア: 文庫
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赤目姫の潮解関連
『赤目姫の潮解』に僕は解説をよせているのだが、いやはや解説を書く前から承知していたとはいえWシリーズの新刊が出る度に『赤目姫の潮解』の底知れなさも深まっていくような気分である。余談だが、解説としては「自分なりの解釈」を示すよりも、その前段階として「『赤目姫の潮解』とはいったい何なのか」を、原典の描写に沿ってまとめ、整理し、個々人が解釈に至る前の土台を整備したつもりである(そして、最後に森博嗣作品全体の中で赤目姫〜がどのような作品なのかの提示をした)。
本書の話に戻すと、赤目姫で起こっている事象と同様のものが本書でも起こっていると考えていいだろう。信号の混線。『赤目姫の潮解』時系列問題は捉えがたいところがあったが、Wシリーズからそう離れていない(過去にしろ未来にしろ)ことも本書から推測されるところである。Wシリーズよりも未来になるのかな。イマイチよくわからなかった人類の共通思考の構築も関わってきそうではある。
生命の価値とは
本書を読んでいて考えたのは生命の価値をめぐる議論で、ようは1.生命に価値があったのは回復が困難だから。2.回復が簡単、たとえばサイバー空間上で生命が定義できるようになった場合、生命のエネルギィ効率が良くなりコピーも無制限にでき、生命の価値自体は薄くなる。そうした状態で「生命の価値」を感じるには何らかの形で「手応えを得る」、たとえば自分と同じような存在との戦いを延々と繰り広げる形などをしなければならないのではないか──という話が展開される。
一方で、「そうなったら、生命の価値なんてものがなくなるだけでは」という考えもあるだろう。生命の価値を一切感じていない状態は「生きている」とはいえないかもしれないが、言葉の定義にすぎないともいえる。ただ、その場合、生命の価値を感じない生命体は何を指向する社会を築き上げる(社会を築かないかもしれないし、生命の価値を感じない生命は生存可能なのか? という疑問もある。)のだろうかという疑問が残る。単純なのは「知りたい」という動機によって駆動されるシステムだけれども、これには限界があるのだろうか、ないのだろうか……。
SFでは生命の価値がほぼなくなったデータ的存在にまで時代を推し進めたものが多々あるけれども、大抵は宇宙に迫っている危機だとか、データ的存在に迫っている危機への対処とか、データ的存在同士の小競り合いで物語が展開していく。このシリーズが時代としてどこまでを描くかはわからないが、この世界の行末を予感させてくれるところまでは描いてくれるのではないだろうか。楽しみにしたいところである。
そして、こうした一連の議論の果に出てきた「戦いによって生きている幻想を見るのだ。」という一文からは多くの人が『スカイ・クロラ』を思い出したのではないだろうか。これには正直、作品間の繋がりが──とかそういうことではなく、森博嗣作品を貫く、揺るぎないリアリティを感じて感動してしまったな。