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東京創元社編集者の本語り──『ぼくのミステリ・クロニクル』

ぼくのミステリ・クロニクル

ぼくのミステリ・クロニクル

北村薫、有栖川有栖、宮部みゆきなどそうそうたる面々をデビューさせ、東京創元社で編集から社長、会長までつとめた名編集者戸川安宣さんへのインタビュー本である。幼少期から本との関わりを語っていくが、やはりおもしろくなっていくのは多数の名のしれたプレイヤーが頻出する大学入学以後だろう。僕なんかはミステリ史や東京創元社の歴史も知らなかったから(二回倒産してる事とか)、あくまでも東京創元社での出来事が中心とは言え時代の空気や流れを感じ取れるのもよかった。

戸川さんのやってきたことは今も書籍や作家たちのデビューした結果として具体的に残っているわけだし、ここで僕がことさらにその経歴を讃え上げる意味もないだろう。となるとこれ以後は「こんなエピソードが興味深かった」ぐらいしか書くことが残っていないので幾つか簡単に。まず戸川さんが1970年に入社したときの出版社の状況がおもしろい。当時勤務時間は9時5時で残業もほとんどなかったというし、初版部数も基本的には2万ときまっていたりとなかなかに牧歌的な時代である。

当時は文庫に関する捉え方も大きく違っていて、『文庫は評価の定まった作品が収録され、恒久的に手に入れることのできる廉価でハンディな容れ物』、ようは名誉の称号のようなものだったのが、だんだんアメリカ流の廉価で軽装な読み捨て本=ペーパーバックに近づいていったのだ、というのはなるほどなと。今は最初から文庫から出るし、単行本と文庫の同時刊行なんてのも珍しくはなくなったし、そうなると読者からすれば「なぜ単行本で出た作品を文庫で読むために3年も待たねばならないのか?」と不満も出る。もともとあった文庫に関する(評価が定まったら文庫として落ちるという)前提がなくなったからで、これも時代の流れでしょうね。

ありえたかもしれない別の可能性

講談社でこちらも名編集者と名高い宇山日出臣さんとの交流や(第4回本格ミステリ大賞特別賞を二人で受賞しているのだが、その時戸川さんが一旦辞退したのを宇山さんが説得したのにはほんわかさせられた)、宮部みゆきや北村薫をいかにしてデビューさせたのか、などの回想は戸川さんだからこそ/担当編集だからこそのものだ。

たとえば、宮部みゆきさんだと犬の視点のある『パーフェクト・ブルー』が最初は若い男の子の視点で書いたハードボイルド小説だったとか、淡々とした日常を描いていくうちに最後の4、50ページで実は殺人事件が密かに起きていて、それが伏線として日常描写に描かれていたと判明する話が別の編集者にボツにされたなどなど。

作家によって完成したひとつの作品の裏にはプロトタイプだったり、別の形で展開していた可能性が内包されているものだが、編集者本というのはそうした無数の可能性を堪能できるのが醍醐味だなと思う。とはいえ本書のおもしろさはそうした"編集業にまつわる興味深いエピソード"だけではなく、後半で戸川さんはミステリ専門店の運営にまで関わるようになるし、その道中も合わされば読み/編集し/書き/売りと出版のほとんどの工程に関わっているさまが描き出されていく。

SFの話題もけっこうある。

「ミステリ・クロニクル」と書名がついてはいるものの、けっこうSFの話題も出たりする。浅倉久志さんに東京創元社からも依頼を出したけれども、浅倉さんが早川に遠慮して最初は本名に近い変名でやっていたこと。東京創元社で採用を行っていたときに、京大ミス研出身の松浦正人さんと京大SF研出身の小浜徹也さん二人が候補に上がって最初は小浜さん一人を採る予定だったのが編集者が一人やめたおかげで二人採用になったことなどなど。めっぽうおもしろい話が揃っている。

そういうわけで非常に懐の深い本となっており、ミステリ・ファン外まで含めて楽しめるだろう。若干時代はズレるが、昨年は早川書房の編集者常盤新平さんのかつてのエッセイをまとめた本も出ており相乗効果でおもしろかった。

翻訳出版編集後記

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