基本読書

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確かなことなんてひとつもない──『騎士団長殺し』

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

村上春樹氏の新刊である。って僕が宣言しなくてもみな知っていると思うが、新刊なのは確かである。読む人は読むし、読まない人は読まないだろう。つまり僕が紹介する意味もあまりないから、振り返りながらざっくりとした感想を書いてみたい。

簡単に全体を通しての感想を先に述べておくと、前回の長篇『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』からは4年、より本格的な長篇『1Q84』からはおおむね7年ということで、久々に村上春樹によるガッツリとした物語を読めたなという満足感が読み終えて(読み途中も)まず最初にやってくる。後述するが明確にこれまでの作品/モチーフを作中に取り込んだ上で、また別の方向性を示しているのも素晴らしい。

今回も相も変わらず30代半ばぐらいの男が語り手となって、妻との仲がうまくいかなくなり、深い穴の底に潜ったり潜らなかったりする。村上作品ではだいたい中心人物は勤め人ではないが、今回も職業は画家であり、必要なだけの肖像画を描いてある程度自由に暮らしている。村上春樹も年々歳をとっているにも関わらず、相変わらず30代半ばの人間を語り手にし続ける、できるのは凄いなと思う(インターネットもほとんど使わないし、その立ち振舞は現代の30代の男ではないのだけれども)。これについては何かのインタビューか質問へ答えていたと思うが、すぐには思い出せない。

まあ、それはいいとしてあちこちに移動した1Q84や多崎〜と比べると、今回は非常に限定的な人間関係、限定的な土地の中で物語は進行する。

簡単なあらすじとか

妻から別れを切り出された男は小田原郊外の山頂の新しい家に落ち着き、そこで奇妙な経験を次々とすることになる。その家にむかし住んでいた著名な画家によって描かれ、屋根裏に隠されていた「騎士団長殺し」と題された絵。通常よりも遥かに高額な報酬で、肖像画書きを引退した語り手に対して自身の肖像画を依頼してきた謎めいた男。深夜に、人がいそうもない近くの古い祠のような場所から鳴る鈴の音──。

語り手は鈴の音の謎を追求し、謎めいた男の肖像画を描き、無口極まりない中学生の少女の肖像画を描き、その途中でいくつもの不可解な出来事/奇妙な依頼に巻き込まれていくことになるが──あまり小田原郊外の家の近辺から出ることはない。基本的には絵を描き、その過程でメタファーやらイデアやらと戯れることになる(説明は省くが、これはそのまんま文字通りの意味で)物語であるといえる。

可能性の世界

梯子がなければ上がれないほど深く、人が入れる広さのある井戸のような穴。遠くはなれていても夢の中ではつながっている、神秘的なセックス。新興の宗教団体、謎の異世界での冒険、スピリチュアルな存在との対話などなど、過去の作品でみられたいくつものモチーフが投入されていく。最終的にしっかりと意味が回収されるモチーフもあれば、回収されず何のために書かれたのだろうと疑問に思うものもある。

もちろん村上春樹というのは同じモチーフを繰り返し繰り返し用いる作家だ。けれども、本書に関しては意図的に繰り返し、過去作を取り込もうとしているようにも感じた。たとえば、『1Q84』では「こうであったかもしれない」可能性としての世界を、"月が増えた世界"として明確に切り替えた上で描いてみせたが、本書では「こうであったかもしれない」し「そうではなかったかもしれない」、無数の可能性を抱えた世界を、切り替えることなく総体として描こうとしているように思える。

 あとになって振り返ってみると、我々の人生はずいぶん不可思議なものに思える。それは信じがたいほど突飛な偶然と、予測不能な屈曲した展開に満ちている。しかしそれらが実際に持ち上がっている時点では、多くの場合いくら注意深くあたりを見回しても、そこには不思議な要素なんて何ひとつ見当たらないかもしれない。切れ目のない日常の中で、ごく当たり前のことがごく当たり前に起こっているとしか、我々の目には映らないかもしれない。それはあるいは理屈にまるで合っていないことかもしれない。しかしものごとが理屈に合っているかどうかなんて、時間が経たなければ本当には見えてこないものだ。

とは序盤の言だが、本書の内容を端的にあらわしているようにも思う。何の変哲もない日常の中で、たまたまとった選択肢が予測不能な屈曲した展開をもたらしていくが、メタ的にその後の展開を予期する「騎士団長」の存在も相まってその背後には別の行動をとった場合の可能性の世界が広がっている。あの電話にでなかったら、誘いを受けなかったらどうなっていたのだろう。"もし、こうなっていたら"、"もし、こうだったら"という可能性の話が本書では会話や回想として幾度も繰り広げられる。

語り手に自身の肖像画の作成を高額で依頼してきた金持ちの男は、自分の"子供かもしれない"女の子にたいして執拗に執着している。娘かもしれない相手にそうと知られずにDNA鑑定をするだけの金も人脈もあるが、彼は決してその手段をとらない。実子かもしれないし、違うかもしれない。真実は調べれば明らかになる。しかし、結果としてその真実は彼に深い孤独をもたらすかもしれない。であるならば、真実は脇におき可能性に思いを巡らせることこそが結果としては幸せなのかもしれない。

 免色は肯いた。「そうです。私は揺らぎのない真実よりはむしろ、揺らぎの余地のある可能性を選択します。その揺らぎに我が身を委ねることを選びます。あなたはそれを不自然なことだと思いますか?」

作中で無数に配置され、時に回収されないモチーフや出来事の一つ一つは、"そうなりえた可能性"──というよりかは"何らかの形で物語に関与していたこともあったかもしれない"予感のようなものとして、描かれずとも作品を広げてゆく。本書を読んでいると、なんだか過去の作品もすべて同時に読み直しているような気分になってくる。たとえるなら、選択肢つきのノベルゲームをやっているような感覚である。

ここで"こういうことが起こったら"、あるいは"この人物がもし仮にこう考える性格だったら"過去の作品のような"展開"もありえたのではないかとついつい思わせる可能性が本書の中には内包されているようだ。限定的な話だと最初の方で書いたが、"可能性の世界"として読むと、その広さはこれまでの作品の中でも一番かもしれない。

おわりに

実は一読した時に物足りない気持ちもあったのだが、もう一度読み直しながらこうやって記事を書いてみると、思っていたよりも深い作品であったようにも思う。何にせよ、すぐに判断がくだせるようなものではなさそうだ。"しかしものごとが理屈に合っているかどうかなんて、時間が経たなければ本当には見えてこないものだ。"