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救う側は誰が救ってくれるのか──『われらの独立を記念し』

われらの独立を記念し (ハヤカワ・ミステリ)

われらの独立を記念し (ハヤカワ・ミステリ)

本書『われらの独立を記念し』はスミス・ヘンダースンの長篇デビュー作。79年から81年にかけてのアメリカモンタナ州を主な舞台とし、ソーシャルワーカーとして"どうしようもなくなってしまっている"家族を支援する一人の男の物語だ。長篇第一作とは思えない筆致で、人生に起こりうる"悲しみ"を深く描きこんでいく。

先に書いておくと、本書はソーシャルワーカーが不幸な家庭に介入し、だんだんと状況を改善させ、親からも子供からも感謝をされ、世界を良くするために、頑張っていこうと思う──、そうした心暖まる物語ではない。ソーシャルワーカーとして介入する家庭には、息子を空気銃で撃つ母親、愛されず、崩壊した家庭で育ったために親に対する罵倒と暴力を繰り返す子供。生活保護の小切手を受け取り、ヤクを買いに直行する親。子供をレイプする親もいれば、養護施設でさんざんレイプされ精神と身体に深い傷をおったまま成長し、嘘をつき浮気を繰り返す大人たちが大勢出て来る。

崩壊した家庭も、きちんとした環境になれば、まともになるかもしれない。しかし、本書で描かれていくのは、崩壊した家庭、崩壊した精神がきちんとした状態を取り戻すことの途方もない難しさだ。誰も楽しく暴力をふるってはいないし、浮気を繰り返しているわけでもない。ただ、なぜなのかそうなってしまっている。みな苦しみながら、どうしたらいいのかわからないと嘆きながら、繰り返さざるをえない状況に追い込まれている。なぜなのかと問うまでもなく、ただ、"とにかくそうなのだ"。

「とくにあたしは。人生の半分は、してもいないことで責められてきたんだから。しまいには慣れっこになっちゃった。あたし、ずっとそれを抱えてるのよ、ピート。その罪悪感を。いまだに。もうやだ。あんたなんかいや」彼女は窓を指さした。窓の外の世界を

そのうえ最悪なのは、物語の主人公たるピートが、支援の手を差し伸べるソーシャルワーカーであるにも関わらず、彼を取り巻く家庭もまた深刻な状況に置かれていることだ。妻とは別居中。妻と暮らす一人娘のレイチェルからは嫌われており、ろくに話もできない。妻の生活もお世辞にも褒められたものではなく、無数の男たちと関係を持ち家は荒れ深く傷ついたレイチェルはその行方をくらましてしまう──。

いくつかの深刻な家庭への介入と並行して、レイチェルの行方をピートが追うことで物語は進行する。崩壊した家庭へと手を差し伸べながら、一方でどうしようもなく彼の家庭が壊れていく。両親は死に、弟は警察から逃亡し、信じた女に裏切られ、他者を救おうとしながらも、誰よりも彼自身が救いを求めている。それなのに、彼自身を助け、娘をどこからともなく連れてきてくれる救い主が現れることはない。

「わからない。ぼくはアル中だ。ベス。きみもアル中だ。それどころか、ぼくはこのあいだの晩、コカインを吸った。ぼくが子供を取りあげてる相手は、ぼくらみたいな連中なんだ」
「あたしたち、そこまでひどくはない。人はまちがいを犯すものよ。そして許されるもの」

ピートは決して完全な男ではない。それよりかは非常に欠点の多い男でもある。しかし彼の娘を思う気持ちは本物で、ソーシャルワーカーとしての誠意もあり、何より人一倍傷ついている孤独な男だ。だから、頼むから、ハッピーエンドになってくれとまではいわない、少しでもいいから幸せになってくれと願わずにはいられない。二段組で550ページを超えている本書だが、ほとんど止まらずに読み切ってしまった。

とにかくそうなのだ。

 それが仕事なので、彼はいくつもの家庭を支援し、職業プログラムに入れたり、行動計画を作って様子を見に寄ったり、医者に連れていって感染症を診てもらったりする。とにかくする。ほかにする人間がいないからだ。それに、彼が仕事をする理由になる人々がいるからでもある。ケイティのような。なぜか。
 なぜかなどどうでもいい。とにかくそうなのだ。

不当だ、という思いがこの物語には満ちている。なぜ、レイチェルが行方不明にならなければならないのか。なぜ、親に捨てられねばならないのか。なぜ、両親は死んだのか。社会的にいえばジミー・カーターからロナルド・レーガンにトップが変わり、オイルショックが深刻化し経済が冷え切っている時代だ。しかしそれは"全体"と"平均"として関与しているものの、個々の家庭には個別具体的な問題が存在する。

彼らは、理由はどうあれ、そうなってしまっている。だから、多くの人々は理不尽に我が身にふりかかる事態に対処するため、教会に助けを求め、宗教によって許されようとするか、自身の信じた夢想にひたって、引きこもってしまう。ピートの不幸は、彼が簡単に教会に助けを見出すことができずに、自分自身が傷つきながらもソーシャルワーカーを続けざるを得ないところにある。彼のソーシャルワーカーとしての終わりなき闘争の果てに何が訪れるのか、彼の周囲に溢れる"どうしようもない出来事"にいかにして向き合っていくのかについては、是非読んで確かめてみてもらいたい。

おわりに

ソーシャルワーカーが直面する"不当な"出来事を、小説として、それもエンターテイメントとして描ききる圧倒的な手腕に加え、本書はピートの行為を純粋な"英雄"として描くわけでもなく、自主独立と、相互扶助における他者への介入はどこまで許されるのか──という点を危うくあやふやなバランスとして描くなど(本書の原題は『FOURTH OF JULY CREEK』でアメリカの独立記念日「7月4日」とその名を冠した川を指している。)、いくつものテーマが見事に取り入れられていく。

もともと二つの話『The book was originally two books, one about Jeremiah Pearl and one about Pete.』*1を統合した作品ということで、読んでいると「深刻な問題が多すぎるからまず一つに集中しろ!」と思ってしまう部分もあるのだが、正直言ってそれがまったく気にならないぐらいにどのページも圧倒的なパワーに満ちた一冊だ。著者はこれ以前から、短篇の執筆やドラマの脚本などはやっていたとはいえ、いきなりここまでの物が書けるというのはちょっと普通ではない。