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奇妙で奇怪で底抜けに愛おしい世界を描くデビュー短篇集──『半分世界』

半分世界 (創元日本SF叢書)

半分世界 (創元日本SF叢書)

第7回創元SF短編賞の受賞者である石川宗生さんのデビュー作。

当たり前だが短編賞ってそれを受賞したところで本になるわけではなくて(創元の場合は年刊傑作選に入るけど)、その後本を出すためにはちゃんと短篇なり長篇なりを書かないといけない。だが、そこには商業ハードルを超える短篇を幾つも書くっていう「短編賞を受賞する」とはまたまったく種類の異なる高い壁があるので、こうしてちゃんと受賞後二年以内に短篇集を出してくるのはその時点でスゴイ。

そして読んでみればその短篇のレベルの高さに唖然としてしまった。吉田大輔という人物が突然19329人に増えてしまったら──という無茶苦茶な状況を丹念に描く受賞短篇「吉田同名」からして抜群の完成度を誇っていたわけだけれども、「他が書けるのか?(これ一本でアイディアが尽きたりして?)」とか、そもそも何を得意とし、指向する作家なのか? というのはさすがにそれ一本ではわからない。

それが本書に含まれた四つの中短篇を読むことで作家としての特異性や指向といったものが明確となり、しかもそれを恐らくは量産できるだけの底知れない能力があることも同時に判明したのである。何しろ読んでも読んでも底抜けに変なうえに魅力的な世界が出てくるのだ。というわけで『半分世界』、マジでオススメです。特に奇妙で奇怪で奇天烈な話を求めている人には忘れられない出会いになるだろう。

以下、四篇についてその内容をざっくりと紹介してみよう。本当に変な話たちだ。

吉田同名

トップバッターは第7回創元SF短編賞受賞作の「吉田同名」。先にも紹介したとおり吉田大輔氏が突然19329人に増えてしまった状況を描いていくが、何しろこの世界にそんなことが許容される道理もなければそうした状況に対応するルールもないわけなので、増えきった瞬間からありとあらゆる領域で混乱が起こり続ける。

突然人間が2万人近く増えれば警察は出動するし、それが全部同じ人間となれば戸籍などの法律をどうするのか、収容先はどこにしたらいいのか。そして肝心要の増えてしまった当人たちは何を思い、どのような行動を起こすのか。また、当然ながら彼の増殖は世界に反響を呼び起こし人権無視だなんだと議論が活発化、救援物資も届くようになり大輔氏らは各自が読解、評論に励み連帯性を高め「エスペラント的な独自の共通語」に開発に着手し──と群体としての個人の在り方が淡々と描かれてゆく。

半分世界

表題作にもなっている「半分世界」では、道路側の前半分が綺麗さっぱり消失している奇妙な家+家族四人と、それを観察しいったいこれはなんなのだと議論し、家族の生活をウォッチする人々の物語が描かれていく。最初意味がわからなくて、「家族は家が半分消失していることを気づいていないのか??」とも思ったのだが、どうやら一家の人々は自分たちが丸見えだということをよく知っているようなのだ。

その家──藤原家の前は通行量が増大し、ケンスケ氏(お父さん)、ユカさん(お母さん)、引きこもりのカズアキくん(息子)、サヤカちゃん(娘)の四人それぞれにファンがつき、彼らが何を食べ、何を好み、どのような変化が起こったのかをウォッチャーらは事細かく把握し楽しんでいく。もちろんこれは半分の家に住む一家が「なぜそのようなことをしているのか?」「これはいったいなんなのか?」といったことを問いかける物語でもあるのだが、それと同時にこれはウォッチャーらの物語でもある。

ユカさんが出したゴミ袋を漁ろうとしたウォッチャー(フジワラーと呼ばれるようになる)はその他大勢に取り押さえられ、直接的に家族にコンタクトをとるのは禁止されているなど、観察者なりのマナーが成立し、フジワラーらに連帯感をもたらしていく。あまりにも奇妙な話だが、克明に綴られていく”なんてことない普通の家族”の日常が、半分世界に晒されているというだけで異常に愉快なものとなるのだ。

白黒ダービー小史

ひとつの家族の物語から一転、「白黒ダービー小史」は町の、そして300年にもおよぶ奇怪な競技の物語だ。白黒ダービーとは競技の名前であり、縦長のフットボール・フィールドの形をした町の全体を舞台にして行われる。

最北端と最南端にそれぞれホワイツとブラックスのゴールポストが存在し、そこに革製のボールを一度でも入れれば勝敗が決するのだが、何しろ競技時間は決まっていないから一日中で、その上街中の人間がサポーター、選手として参戦しているために第三回白黒ダービーは無限に引き伸ばされるがごとく決着がつかない。本来なら非日常、あるいは一時的な狂騒であるはずの”試合”が日常と一体化してしまっている。

ひたすらバカ話なのではあるけれども、ブラックス所属の選手と、ホワイツの監督の娘のロミオとジュリエットな恋物語を中心として、この競技の裏側と哲学、そして歴史が紡がれてゆくのが楽しくて仕方がない。そして黒と白、これまで決して相容れることのなかった二つの色が、二人の悲恋を通して入り混じってゆく──というプロットは、「半分世界」の”みるものとみられるもの”の関係性、より抽象的にいえば、相反するものが入り混じり溶け合ってゆく奇妙な読後感を呼び起こす。

バス停夜想曲、あるいはロッタリー999

いやあ変な話ばっかりだなあ、でもさすがにもうこれ以上に変な話はもうでてこないだろう……というところで最後に現れたのが「バス停夜想曲、あるいはロッタリー999」。巨大な十字路に並ぶバス停で、人々はバスを待っている。それは当たり前なのだが、おかしいのはバス停なのにバスがいつくるのか誰にもわからないことだ。

まったくこないわけではなく、一時間に一、二本はくる。だがバスは999番まであり、人によっては一週間も自分の目的とする番号のバスがこずに待ち続けることになる。そこで人々はバスを待つかたわら、お互いを自分の待ち番号で呼び合い、携帯も通じない中、水や食料を分け合い、芸術が生まれ、ゆるやかな共同体《バス停ポリフォニア》、凶悪犯罪集団《バス停カルテル》など無数の関係性が生まれてゆく。

 明け方に十字路の南西部で焚きつけを拾っていたとき、不思議な絵が描かれた大きめの岩をいくつか見つけた。バスに群がる人びと、雪景色や色とりどりの花畑、黒曜石の決勝のように迫り出した摩天楼。タッチはばらばらで、ペンキや油絵の具らしきもので描かれているものもあれば、マニキュアを思わせる艶やかな塗料で描かれたものもある。そのいくつかは風化し、色あせていた。

”バス停でバスを待つ”という日常そのものの光景が、”バスがいつくるかわからない”という設定を加えただけで一気に非日常的で幻想的な空気に様変わりしただひたすらに奇妙な風景を幾人もの視点から描き出していく。「欲をいうのならば、行き着くところまで描いて欲しかった」と僕は「吉田同名」を最初に読んだ時に感想として残していたが、ここにはその光景の一端が描かれるのだ。

おわりに

”当たり前の日常”がこの小説世界ではさまざまな形で破壊され、あるいは別側面から日常の神秘的な側面を、どの中短篇も人の”群体”を通して暴き出してみせる。奇妙極まりない世界ばかりだが、同時にできるならば実際にこの世界を見てみたい/参加してみたいものだと思わせる愛おしさがある、非常に特異な中短篇集だ。