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共感しない方がよりよい結果を得ることができる──『反共感論―社会はいかに判断を誤るか』

反共感論―社会はいかに判断を誤るか

反共感論―社会はいかに判断を誤るか

他者にたいして共感するのはいいことだと思われている。ひどいめにあった人をみて、強く感じ入り、そのつらさを共有する人は、一般的には善良な人だ。より多くの人がもっと他者に共感するようになれば、他者に暴力をふるったりすることもなくなるのではないかという考えもある。”もちろん、共感には利点があるけれども”、しかし全体を通してみると害も大きい。単純化すれば、それが本書の主張となる。

 私自身も、かつてはそう考えていた。しかし今は違う。もちろん共感には利点がある。美術、小説、スポーツを鑑賞する際には、共感は大いなる悦楽の源泉になる。親密な人間関係においても重要な役割を果たし得る。また、ときには善き行いをするよう私たちを導くこともある。しかし概して言えば、共感は道徳的指針としては不適切である。愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い。非合理で不公正な政策を招いたり、医師と患者の関係などの重要な人間関係を蝕んだり、友人、親、夫、妻として正しく振る舞えなくしたりすることもある。私は共感に反対する。本書の目的の一つは、読者も共感に反対するよう説得することだ。

というわけで読み終えた感想だけれども、「まあ、そうだよね」という内容が大半で、「たしかに共感には善くない側面があるね」ときちんと説得されてしまった(読む前から同じ考えだったけれども)。そもそも、いきなり「読者も共感に反対するよう説得することだ」と大きな宣言をしているし書名も勇ましいが、著者は完全なる共感の反逆者といった立場ではない。『つまり、他者を思いやる善き人になりたいのなら、あるいは世界をもっとよい場所にしたいのなら、共感なしで済ませたほうがよい結果が得られる、というのが私の主張だ。』といったぐらいの、ゆるやかなものだ。

それにしてもどういう時が共感なしで済ませたほうがいいケースなのか? という話をする前に「共感」の定義の話をしておこう。本書では、共感を「他者が感じていると思しきことを自分でも感じること」であり、「他者の経験を経験する」ことだとしている。つまり他者に対する思いやりや愛情や善良さはここでは「共感」から除外されているのであって、著者はそこに対して「不要だ」と言っているわけではない。

共感なしで済ませたほうがいいケース

我々は他者が痛めつけられていれば共感して大なり小なり痛みを感じ、子どもがひどいめにあっていれば大人が同様の目にあっているときよりも極端な感情の動きを体験する(ことが多い)。しかしそうした事態はある種の”偏向”をもたらすことになる。たとえば最近読んだ『死体は嘘をつかない (全米トップ検死医が語る死と真実)』でも、児童虐待に関わったとされる被告に対して、検死医が子どもが「自然死」であって、無実である科学的根拠を証言したにも関わらず、陪審員の判断、世論の怒り、人種差別的感情におされ有罪判決を受けざるを得なかったケースが紹介されている。

「推定無罪」が原則でありながらも、子どもが死んだとなると人々の目は一気に曇り、怪しい人物を吊し上げずにはいられなくなる。他に本書で紹介されている例としては、たとえばワクチン接種のせいで八歳の少女が重病にかかったとする。医療は絶対ではないからそうしたことは(インフルエンザ予防接種だって)いくらでも起こりえる。かわいそうな少女の姿を見て、その訴えを(仮にニュースかなにかで配信されて)聞いたら、共感を覚えて行動したくなるだろう。だが、仮にワクチン接種プログラムの中止を働きかけて実際に実施されてしまった場合、より多くの人が死ぬだろう。
www.huffingtonpost.jp
「共感」のもたらした害として一概にくくることはできないが、我々の道徳や行動は共感によって形作られることが多く、上記リンクのようなことが容易に起こりえる。というような例を本書では無数に取り上げていく。たとえば他者に対する深い共感力があれば他者に対する暴力もなくなると思うかもしれないが、実際には”犠牲者の立場”に共感することで怒りや暴力性をも共有してしまうケースも考えられる。

共感の善性

それと同時に本書で語られていくのは、一般的には”共感による利点”と捉えられているいくつかの事象に対する反証だ。たとえばサイコパスは共感能力の欠如があると語られるが、果たしてそれはサイコパスの基盤的欠陥なのだろうか。確かに一般的にサイコパスは共感力が低いが、それは特定の情動の欠陥ではなくあらゆる情動の鈍麻としての帰結であって、共感と攻撃性の関係調査ではその関係性は弱いとされる。

より大きな話でいえば、慈善団体に対する寄付金が少なすぎた場合、それを処理するコストが寄付額を超えるとか、発展途上国に対する欧米諸国の援助が実際には思いの外役に立たないとかいろいろ上げていくのだけれども、難癖的な内容も目につく。もちろん著者も支援がすべて無意味だなどとは言っておらず、共感の罠に落ちずに賢明に援助しないといけないよといっているわけだけれども、そもそも寄付コストや欧米諸国の援助の問題は、共感による問題ではなく支援プロセスの問題であるし、それが成される起因も(特に途上国への援助など)”共感”だけであるはずがないのだから、ことさら共感の問題として取り上げる必要性が薄いようにも思う。

また、『必ずしもそうは言えない』とか、『共感の欠如が彼らの悪しき行為の原因であることを示す証拠は得られていない』など、特に共感の欠如と暴力性の関係に関する章では曖昧でぼかさざるをえない研究からの引用が多く、著者がいうほど「共感」と「思いやり」「他者の理解」などが綺麗に分けられるものでもないように思えるし「ふわっとしてんなあ」と思うところもある。著者が何度か「自分は共感に全面的に反対しているわけではない」と念を押すのも保身ばりばりで正直面倒だ。

おわりに

と、本書に書いてあることをそのまま全てを受け入れているわけではないけれども、主張自体はその通りというほかない。共感によって行動するのは結構な話だが、それによってもたらされる不利益について我々は自覚的でなければなるまい。

我々は理性的に行動する能力を持っているのだから──というのはもっともな話であるが、結局共感によって行動が(時に暴走して)誘発されるのは人間それ自体の欠陥なのだから、人間が自然に理性を発揮させられる(あるいは共感によるマイナスをできるかぎり減らす)制度、ルール設定が必要になってくるだろう。本書はそこに深く踏み込むものではないが最終章まで読むと人間行動について得るものは多い。

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