基本読書

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「私」とはいったい何なのか──『私はすでに死んでいるーーゆがんだ〈自己〉を生みだす脳』

何歳になっても自分探しの旅といって国外に行く例はよくあるが、その場合の「自分」とは、「何がやりたいのか」とか「まだみぬ自分の一側面」とか、そういったものであることがほとんどであろう。本書では、それよりもっと本質的なもの、「私」という感覚がどこからやってくるのか、脳のどこが損傷した時に、「私はすでに死んでいる」という矛盾した知覚に行き着いてしまうのか──を問いかけてゆく。

「私はすでに死んでいる」なんて言い出すのは北斗の拳世界の人ぐらいだろうと思いきや、コタール症候群と呼ばれる症状を呈した患者らは「私の脳は死んでいるんです。精神は生きてますが、脳はもう生きてないんですよ」と強烈に訴えかけ、自分が死んでいるとする妄想を披露する。果たしてどんな脳機能障害が、そのような特異な感覚を想起させるのか。本書ではコタール症候群を筆頭に、自閉症、統合失調症、アルツハイマー、身体完全同一性障害、癲癇といった「自己」感覚に損傷を与える病気を取り上げていき、「私」とはいったい何なのかを解き明かしていくことになる。

 この本で見ていきたいのは、自己はどんな性質なのかということだ。自己を探るときは、その多面性をとっかかりにするのがひとつの方法だ。「私」は他者に対して、さらには自分自身に対してひとつきりの存在ではない。「私」はたくさんの顔を見せる。アメリカの偉大な心理学者ウィリアム・ジェイムズは、自己には少なくとも三つの側面があると考えた。自己あるいは自分のものと見なすすべてのものが物質的自己。他者との相互作用に依存する社会的自己(「ひとりの人間には、頭に姿を思い浮かべることができる人の数だけ社会的自己がある。」)。そして精神的自己だ(「ひとりの人間の内的、もしくは主観的存在、心的能力、あるいは心的資質」)。

著者のアニル・アナンサスワーミーは脳科学者や神経科学者というわけではなく、編集者、サイエンスライターであり、『宇宙を解く壮大な10の実験』のように刺激的なトピックスをわかりやすく伝える仕事をしている。そのため本書も専門的な内容っぽさを漂わせておりながらも(実際、内容はかなり専門的なところにツッコんでいるのだけれども)、非常に読みやすい。ま、それは無条件に良いことではないが。

さまざまな症例

肝心の本書の内容だけれども、病気の当人たちには申し訳ないものの、「自己」がゆらぐ疾患の数々は、その症例を概観していくだけでも実におもしろいものだ。

コタール症候群のように矛盾を体現したかのような人々がいるということがまず驚きであるし、てんかんの発作がひどく脳の一部を切除したのち、まったく新しい記憶を蓄えられなくなった=しかし過去の記憶は残っている人の奇妙な応答、またそのように記憶が錯乱した状態で「自己」感覚がどのように変質するのか、四肢切断欲求を持つ人々の特異な「自身の身体感覚」の症例など、読んでいてワクワクさせられる。

四肢切断欲求=身体完全同一性障害(以後BIID)を持つ人々のことは僕も今回はじめて知ったが、彼らは身体の一部(右足とか)が自分の物だと思えずにおり、どうしてもその事に耐えきれず、自身の足を切断してくれる医者を探し求めるのだという。『自分の身体が、右脚の太腿の真ん中ぐらいで止まっているのです。そこから先は私ではありません。』本書では実際にBIIDであり、切断手術を受け、救われたと感じた人々の体験談が複数載せられている。リスクを犯して彼らの手術を担当している医師の話も載っているが、誰も後悔せず、みな手術が終わった後は幸福であるいう。

しかし一体何がそんな状態を引き起こすのだろうか。BIID患者は「自分のものではない」身体のラインを明確に把握しており、これは心理的なものではなく神経的なものであることを示唆している。また、身体所有感覚の実験によると、身体感覚と身体の各部分の動きの感覚を統合するネットワークが脳内の幅広い領域に関わっており、BIID患者の脳の異常は、ほぼすべてがこの中で起こっていることがわかってきた。

他にも、統合失調症患者は自分で自分をくすぐることができる=自己生成行動と非自己行動の区別ができていないとする自己感覚のゆらぎや、情動がなくなり、身体的な実感を喪失してしまう離人症の症例(身体の内側と外側から入ってくる刺激を統合する、左前島皮質の神経反応が鈍くなってしまっている)、体外離脱体験、ドッペルゲンガーなどの発生原因(脳機能の箇所)を通して、「いま、わたしが存在しているという感覚」を脳のどの部位が生み出しているのかに迫ってゆくことになる。

その結論部分について最後に触れておくと、単一の箇所からすべての「自己感覚」が湧き出してくるわけではないが、コタール症候群、離人症性障害、ドッペルゲンガーには先にも触れた島皮質が関わっており、ここが「自己」の重要拠点である可能性が高い。『人間の全感覚の責任は前部島皮質にある。前部島皮質は、身体の生物学的状態を主観的に自覚するための神経基質であり、外部刺激、内部刺激、活動動機の表象が起きている状態を、前部島皮質が統合しているのだと』と研究者の一人は語る。しかも、ここ(前部島皮質)に電気刺激を与えると、恍惚とした状態が続くという。

おわりに

研究がさらに進めば、慢性不安や神経症的傾向も前部島皮質との関連でさらに理解が深まるかもしれない。本書ではそうした、前部島皮質が持っているさらなる役割についてや他諸症状のより詳細な機能と症例が解説されていくので、是非読んでもらいたいところだ。「自分が自分であること」という精神活動の支柱が揺らいでいく情景はたまらなく刺激的だし、この手の本にしてはお値段も控えめだし。