基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ロボット法と関連するロボット/アンドロイドSFを紹介する

ロボット法

ロボット法

ノンフィクションとSF(を筆頭とした作品)を同時に読んだらおもしろいじゃろう、といつも思っているので、その二つを並列的に紹介する試みをやろう。現実の物理事象がネタ元になっているハードSFを宇宙物理学系の本と合わせて紹介してもおもしろいだろうし、ドローン/遺伝子/脳科学/AIと、小説と関連して話を膨らませられる題材も多い……ということで初回は最近盛り上がっている”ロボット”である。

ロボット法については近著で手頃なノンフィクションが二冊あるのでそれを中心にして紹介するとして、一言ロボットといってもそこには無数の広がりがあって、全側面を取り上げることはできないのでまず最初に超古典的な作品、そしてロボット法関連の本でもまず筆頭として名前を挙げられるアシモフの『われはロボット』を。そして最近刊行された、”ロボット法”との関連で読み応えがある三冊を紹介してみよう。

ロボット法とは。

日々自律性を増すAI/ロボットの現状は、このまま進展していけば既存の法体制のままでは処理しきれない/危険が残る状況になるのは明らかで(というかすでにそうなっている)そこに対してロボット法は”新しい道”を模索、あるいは”そもそも新しい道を模索すべきなのか”と問いかけてみせる。ウゴ・パガロによる『ロボット法』では、行為者性、答責性、法的責任、立証責任、責任、などなど無数の観点からロボット法の体系的をきっちり抑えていく内容で、どこまでは既存の法体系の中で分類しうる事案で、どこからはできないのかを綺麗に仕分けしてみせる。

イントロダクションにおいて強調したように、ロボットの設計者、製造者、利用者の責任は、機械を(ⅰ)法的人格、(ⅱ)適格な行為者、(ⅲ)制度内の他の行為主体の責任発生源のいずれとして理解すべきなのかという疑問を呼び起こす。こうした区別により、今日においてがロシアのヤギを起訴しない理由が明確になる。しかしそれでもなお、ロボットが「法的義務への感受性」を持ち、さらには「刑罰に対する感受性」さえ備えるのかは未解決の問題である。(ウゴ・パガロ『ロボット法』)

あの有名な”ロボット工学三原則”の初出なこともあって、ロボット法関連の本では大抵の場合アシモフの話が盛り込まれるものだが、『ロボット法』でもまるっと一章を割いて、アシモフが作中で描いた問題意識が現代にかなりの部分そのまま接続できることを紐といてゆく。ロボット工学三原則研究の歴史自体も古く、ある研究者は第三原則「自己を守らなくてはならない」と第二原則「人間に与えられた命令に服従しなければならない」が矛盾する可能性に対して、「ロボットは、上位のロボットからの命令に服従しなければならない」という文言を第二原則第二項として追加することを提案するなど、そもそも無数の発展・検証が行われている分野でもある。

何十年も前に書かれた小説が現実を動かし、さらに変化した現実がまた小説を参照してその強度を証明しているわけで、SFとしては理想の形の一つのようにも思える。ちなみのその同世界作品群もたいへんな傑作、また現代においてなお参照されていることからも明らかのように時代を超えた作品ばかりなのでオススメしたいところだ。

われはロボット 〔決定版〕 アシモフのロボット傑作集 (ハヤカワ文庫 SF)

われはロボット 〔決定版〕 アシモフのロボット傑作集 (ハヤカワ文庫 SF)

本の内容には本格的には立ち入らないけれども、ほとんど同時期に出ている平野晋『ロボット法--AIとヒトの共生にむけて』も基本的にウゴ・パガロ本の方と論点は同様で、ロボット法の歴史を語り、自動運転の車が事故った時に”誰が責任をとるべきなのか”、製造会社なのか、プログラマなのか、所有者なのか。はたまたロボットを行動の主体として定義しうるのか、と問い直していく。そこは当然ながらまだ決定されていない・答えの出ない難問領域で、依然としてフィクションの領域でもある。
ロボット法--AIとヒトの共生にむけて

ロボット法--AIとヒトの共生にむけて

フィクションとノンフィクションの話

長谷敏司『BEATLESS』では、ヒューマノイドインタフェースエレメンツ、通称hIEと呼ばれるクラウドと繋がったアンドロイドが、所有者によって用いられる道具として、決断し所有物の行動の責任を全面的に負うオーナーとなる主人公アラトと出会い「モノ」と「ヒト」の新たな関係性を描き出していく。ここでは、「ヒトはモノとしてのアンドロイド/AIを使い、その責任を負う」とする、ある種の割り切り(もちろん作中では無数の観点が盛り込まれていくのだけれども)が行われているのだけれども、”だからこそ”ここにはその関係性を突き詰めたひとつの未来のかたちがある。

BEATLESS 上 (角川文庫)

BEATLESS 上 (角川文庫)

また、近著で同時にオススメしたいのは小川一水の短篇集『アリスマ王の愛した魔物』所収の書き下ろし作『リグ・ライト──機械が愛する権利について』は、運転に携わるロボットとその責任と権利の所在をめぐって紡がれる"愛し愛される権利"についての物語。ここでもAI、ロボットは”責任をとることができない”という前提が如かれているが、”いったいそれはなぜなのか?”、”どのようにすれば、ロボットは責任をとることができるのか?”という問いかけ──AI/ロボットが、現在の道具としての立場とはまた違った、新しい権利/概念を取得していく道のりが描かれていく。
アリスマ王の愛した魔物 (ハヤカワ文庫JA)

アリスマ王の愛した魔物 (ハヤカワ文庫JA)

他にも近著としては、山本弘『プラスチックの恋人』では売春禁止法に抵触しないセックス用アンドロイド、その中でも児童型の物が開発された日本を舞台に、法的に容認できるのか、仮に容認できるとして、それは許容されるべきなのかといった議論が展開し、人間とは大きく異るアンドロイドと人間の関係性を描き出していく好著だし(ただしセックスシーン多し)、現代の難問について、SF作家らはみなそれぞれ違った角度からフィクションとして取り上げていく、その光景がまたおもしろいのである。
プラスチックの恋人

プラスチックの恋人

「フィクション」で描かれたヒトとモノの関係、その責任の取り方については、ノンフィクションの方でも推論が語られていく。たとえばジェリー・カプラン『人間さまお断り 人工知能時代の経済と労働の手引き』の中では、自律的なAI/ロボットと奴隷制度の類似例を指摘し(この類似性の指摘はポピュラーなもの)、奴隷制当時奴隷が事件を起こした時、奴隷自身が責任をとる(奴隷が被害者へと貸与されるなど)形がとられていた例をあげ、ロボットも奴隷と同様罰を与えることで責任をとらせることができる(被害者への貸与であったり、重要なデータの消去だったり)と論じてみせる。

『BEATLESS』には、人間がどうしたって人型のものの表情や行動に心揺さぶられてしまう弱点を通して、hIEがハッキングを試みる”アナログハック”という概念が出て来るのだけれども、『ロボット法--AIとヒトの共生にむけて』では『ヒトは愛によって容易に操作されてしまうから、機械であるロボットにヒトを騙させて、ヒトが必要以上にロボットへの執着心を抱くことのないように設計上注意すべき』という指摘があったりと、特にお互い意識せずとも、双方向の論点が発見できるものである。

おわりに

ある意味、未来に起こりえる架空の事例について語っているわけで、こうしたノンフィクションもほとんどフィクションに片足ツッコんでいるようなものだけれども、その双方を読むことでみえてくるものも多いだろう。そもそも、どちらも読んでいて同じように楽しい(少なくとも僕は)。本当はロボット・テーマでいくと関連としてAIにまで話を広げるべきなのだが(そうなってくると、人工知能学会の雑誌『人工知能』とかにも当然触れねば成るまい)、きりがないのでそれはまた別の機会に。