基本読書

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ゲームプレイヤーの人生を綴ったIGNの人気連載の書籍化──『電遊奇譚』

電遊奇譚 (単行本)

電遊奇譚 (単行本)

ネットを日夜徘徊している人はIGN Japanの連載「電遊奇譚」を読んだことがあるかもしれない。たとえば、母が頸を吊って死に、その後残された一家がヨーロッパへと向かい、そこで泊まったホテルのベルボーイとの会話、傷んだ心にもたらされる救済と心温まる手紙のやりとり、ラストへの(ゲーム連載として秀逸な)オチとあらゆる意味で完璧な短篇である【電遊奇譚:其十三】ロンドンのルイージマンション

人生を破滅させるほどゲーム(「Wolfenstein:Enemy Territory」)に没頭し、たとえ後には消えていき物理的に後に残るものはなかったとしても、それでもゲームに人生を賭けて没入する理由を語った「【電遊奇譚:其一】 身を滅ぼしてまでゲームに打ち込む理由」など、この連載は著者自身の経験をベースにしたゲームのプレイ体験記──あるいは人生記であり、普通じゃない程ゲームに打ち込んだ人間の人生を通して「ゲームをプレイする」体験自体の魅力を引き出し、「ゲームと共にある人生」の姿を無数の側面から描き出していく。『人生をだめにするほどビデオゲームに没頭した経験をもつ人は多くいるだろう。そこからどのようにして生き延びたかが問題だ。』

本書はそんな連載の書籍化である。連載されている時からこれは実体験なのか、はたまた小説なのか、といった問いかけはなされていたが、著者によるといずれであるかの判断がつけようがなく、英米文学の「Creative nonfiction」に(おそらく)近いと答えている。物にもよるだろうが、ようは基本的には事実ベースの短篇であるぐらいに捉えておいていいのだろう。だいたい、人間の過去なんかどれほど正確に描写しようとしても、その大半は事実かフィクションかなど判別のつきにくいものである。

淡々とした語り、それでいてゲームへと人生を賭けたことのある人間からしかでてこないような燃えたぎるような体験、感情の表現のすべてが秀逸。いったん連載が終了して再スタートを切った15回目以降は、ビデオゲーム以外のゲームと自分の実人生の関わり(ギャンブル、新婚旅行、競馬)を語ったり、ゲーム論が並んだりと内容の幅も広い。僕自身、起きている時間のほとんどをMMOに費やしていた期間があり、語られていく内容には深い共感を覚える。それは著者と同じく平成生まれの同世代人であり、やってきたゲームも似通っていることも関係しているかもしれないが。

ここにあるのは”新しい現実”を舞台にした、”新しい語り”である。そうであるがゆえに、本書を読むことは、人生をだめにするほどゲームに没頭した人はもちろん、小説、エッセイファンにとっても新しい、特異な体験となるだろう。

ざっと紹介する

第一回で著者の師匠が語る、マイナゲームを極める理由『ひとりの人間には、たったひとつだけでいいから、なにか心から誇れるものが必要なんだ。おれはあるひとつのことを、ここまで突き詰めてやったんだ――人間には、そういう自負が必要なんだ。』。初の恋人から「バイオハザード」をプレイしてほしいと頼まれ、そこから始まる、彼女の部屋へ行ってキスをしてから「バイオハザード3」のプレイをはじめる奇妙な週末のサイクルを描く【電遊奇譚:其四】さよなら、ラクーンシティ

認められなかった自分の欠点を認め、敗北を重ね強くなっていく楽しさを知る「【電遊奇譚:其七】 敗北の先にある戦い」、【電遊奇譚:其十二】おれにはゲーマーの歌声が聞こえるで語られる、FPSの日本代表チームの練習で知る、『システマティックに機能するチームという有機体の中で重要な役割をこなすことからくる充足感』あたりは、たとえゲーム自体プレイしたことがなかったとしても、FPSやTPSへとのめり込んだ経験があれば、頷かずにはいられない。僕が最近ハマったのは『Overwatch』だけど、名前も思い出せないゲームもたくさんやったなあ……。

単純に短編として異常に出来がいいのは、最初に紹介した「ロンドンのルイージマンション」で、話として惹かれるのは小学生にして麻雀をこなし、「点10」で賭けた金で「スターフォックス64」を買いにいく【電遊奇譚:其六】 小学生の雀鬼が麻雀を辞めるまで。(スターフォックス64は本当に名作)、Eve Onlineでのロシア人との敗北必至な戦争を描く【電遊奇譚:其三】銀河系の片隅の戦争と友情をはじめとした、Eve Onlineを題材にした回は、著者が日本有数のプレイヤーであることも手伝って、どれもMMOの底知れない魅力を最高の形で知らしめてくれる。

第十五回以降の、特に奥さんが出てくる回(【電遊奇譚:其十五】九州自動車道のジャックポット【電遊奇譚:其十八】あとにして、私はいまハイラル王国にいるの)は全体的に村上春樹っぽいし(と思っていたら最後の、精神性を参考にしたという参考文献でそのどちらも村上春樹があがっていた)、『ゲームこそが新しい時代の芸術であると。ゲームによって救われる魂の数は計り知れないと。』と高らかに歌い上げる【電遊奇譚:其二十五】ゲームは人生の解釈である(前編)も、ゲームと人間の関わりを問い直し、著者の小説作品へと繋がっていく素晴らしいゲーム論だ。

おわりに

ゲームというのはたとえオフライン・ゲームであっても、出会いも違えばクリアまでの道筋も違い、その体験は人によって大きく異なっていくことになる。多人数が介するオンラインゲームに至っては、人との出会いもあれば裏切りもあり、経済もあれば恋愛もある、そこは現実とはまた別のルールが支配する”もうひとつの現実”だ。

年齢も性別も住んでいる場所も関係なくそのゲームがなければ出会うはずもなかったバラバラの性質を持った人たちの集合体。今でこそオンラインゲームは一般的なものとなってそう珍しいこともないが、それが現れたばかりの頃は──ウルティマオンラインやEverQuest、ラグナロクオンラインを初めて触った時の感動は言葉ではとても言い表せない。画面の中を! 別の人間が操作しているキャラクタが! リアルタイムで動いている! 殺すこともできるし、話しかけたら答えが返ってくる!

しかも、オンラインゲームでは闘争も競争も出会いも別れもすべてが高速化して起こる。高速化されたもうひとつの現実──だからこそ、そこで起こったすべての出来事は現実の出来事と同じぐらい語られたがっている。だがしかし、これまでそう多くは語られることはなかった。著者はそこを開拓した。本書と同時期に早川書房から『手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ』が刊行されたが、当然ながら、単著も何もないうちから見込まれ、依頼されているわけで、著者の筆力は普通のものではない。

ようはいきなり、ほとんど何もなかった土地を凄い勢いで開拓しつつも、後続が乗り越えるのが非常に困難な壁を築き上げていったようなものだ。『ゲームこそが新しい時代の芸術であると。』と著者は宣言するが、そうであるならばゲームについての語りも、さらに豊穣であらねばならない。本書はそうした挑戦の一冊である。