IGN Japanのエッセイ『電遊奇譚』の藤田祥平さんによる、デビュー長篇である。5歳の頃、幼き藤田少年がポケモンをプレイする場面からはじまる、ゲームと人生についての本なのだが、帯に自伝的青春小説とあるように書かれている内容の多くは実体験に基づくものだと思われる。『電遊奇譚』の方も、ゲームと人生のエッセイなのだけれども、そことエピソードのほとんどが共通していることからもそれがわかる。
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手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ
そういう事情も加わって、だいたい書きたいことは『電遊奇譚』の記事の方で書いてしまった感があったので、こちらの作品についてどういう切り口で書くのがいいのかなあ──と、悩んでいるうちに読み終えてから少し時間が経ってしまったのだけれども、何も書かずにスルーするには惜しい小説でもある。淡々と自身の内面とゲームとの関わりが綴られていくその語りは、するっと理解できるにも関わらず同時に底が知れず、ゾッとするような読み心地をもたらす、いわく言い難い小説である。
一言で言えば「自伝的青春小説」でしかありえないのだが、『この小説は、基本的に、電気信号についてのお話である。』と序盤で著者によって宣言されるように、これはゲームの話であると同時に人間の営為、人間そのもの、そして人間が生み出すありとあらゆる物についての物語でもある。さらに、物語内で著者は何度もこの小説をどういう話にしたかったのか。なぜこんな話になっているのかを語り、なおかつ読者──「あなた」へと向かって語りかけるメタ的な構造を持っている。それはつまり、「小説」と「読者」の電気信号のやりとりについての話でもあるということだ。
これをあなたにどうやって説明したものか。
望むなら、あなたは誰だって蘇らせることができる。蘇生することができる。誰かが傷ついたら、しかるべき処置をとって、治してやればいい。誰かが死んだなら、すばらしい奇跡をこしらえて、生き返らせてやればいい。そうすれば、その人は永遠に、いつまでも、虚構の世界のなかで幸せに笑っているだろう。
私は、できることなら、この小説をそういう話にしたかった。誰も傷つかず、誰も死なない、そういう世界を作ってみたかった。しかし、そうはならなかった。私の技術が不足していたのかもしれないし、変えてはならないことや、決して変えられないことを、いろいろと悟ったからなのかもしれない。
仕方がない。そういうものだ。また機会はあるだろう。
そろそろ、私の運命に落とし前をつけさせてもらおう。小説を始めよう。
物語の始まりがポケモンであるのは象徴的だ。何しろそのトレードマークは電気ねずみであるわけだし(最近、デザインの参考はネズミじゃなくてリスだったと明らかになったが。確かに、今のピカチュウはネズミっぽいが、初期のずんぐりデザインはリスっぽかった)。そして、書名の「手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ」は、作品自体の象徴であり、我々読者をこの小説へと取り込む魔法なのである。
読みどころとかざっと紹介するか
平成の初期に生まれた世代(藤田さんは1991年生まれ)は、生まれた時からテレビ・ゲームがあり、パソコンが一般家庭に普及し始め、インターネットへの接続が容易に行われるようになるのと”共に”成長してきた世代でもある。本書の読みどころの一つは、そうやってだんだん発展していくインターネット&ゲームの成長のダイナミクスの中で、変化に揉まれながら生きていく体験が刻みこまれているところにある。
昔はともかく現代にあって、世代で傾向をくくるのは好きではないが、この手の大きな変化の中でどのような衝撃を受け、体験をしてきたのかというのは、やはり世代毎に大きな差があるのだろう。それは感受性が──とかそういう問題ではなく、時間や友人の問題として。どれだけの時間をゲームに注ぎ込めるのか。自分と同じだけの時間を注ぎ込んでくれる友人は周囲に(ネット空間の中に)どれだけ存在しているのか。年齢問わずに知り合えることのできるオンラインゲームであっても、よくつるむ面子の年齢を聞くとだいたい学生か暇な主婦であったりというのはよくあることである。
小説としておもしろいのは、大規模な人間が介在するオンラインゲーム特有の興奮が物語としてすくい取られていく点にある。ゲームとは基本的にフィクションだが、オンラインゲームの場合そこには現実の人間が介在しているわけだから、象徴的意味合いでも何でもなく実質的にそこは”リアル”なのだ。現実の人間関係があるし、メールアドレスを交換することもあれば、仕事や学校の愚痴を聞くこともある。めでたいことがあれば、会いにいって酒も飲める。十年、二十年の付き合いにだってなる。
そう、ゲームをプレイすることに加えてもうひとつ心地よかったのは、一般にはまったく知られていないゲームの「日本代表」となり、平日の深夜二時から一緒にゲームをプレイするという、数奇な運命に導かれて集まった仲間たちとの会話だった。私たちは年齢も住む場所もばらばらで、このゲームがなければ出会うはずもない者たちだったのだ。キラークは神戸の美大かなにかに通う学生で、ミルクは神奈川の実家で株を運用して食っている二十代、おなじサポート・メディックのアップステートはパチンコ店の割の良いアルバイトで生活しているフリーター、スティーブは全国に名の聞こえた有名大学の院生、ヴィクターは北海道の農業高校に籍を置く引きこもりだった。そして私は学校教育をまじめに受けるつもりのない高校一年生であり、ほかの全員とおなじぐらい集中してゲームをする時間があった。
藤田少年は、そうしたゲーム上の付き合いを続けながら、ひたすらコマンドを入力し、その応答を吟味し、さらにコマンドを入力する営為を積み重ねていった先に、それを”現実”の側に活かし始める。『小説については、うまく進んでいるようだ。少なくとも、どのように書いていけばよいかは、わかってきた。流れのようなものがあって、それに乗っていけばいいのだ。ひとつのオブジェクトにたどり着くまえに、その次の展開を考えておけばいいのだ。基本中の基本じゃないか、こんなことは。そう、小説なんて、この程度のものだったじゃないか。かんたん、かんたん……。』
おわりに
こうした、現実とゲームの混交というか、もはやそれらが一体化したような読み味──もしくは”リアリティ”は、小説作品としては非常に独特なものだ。そして、僕には(多くのゲームと共に生きてきた人にとっても恐らく)しっくりくるものである。
もしも、村上春樹が平成の世に生まれていたら、こんな作品を書いてたかもしれないよな(村上春樹はストイックな人間だから、ゲームにのめり込んでいたら凄いゲーマーになっていたんじゃないかな)とか、いろいろと考えながら読んでいた。
とりあえず冒頭が公開されているので、読んでみて貰いたいところ。最近、『ゲームライフ』とかもそうだけど、ビデオゲーム文学、ビデオゲームと共に生きてきた人たちの人生録みたいなものがよく出ていて、そういう時代になったんだなあと思う。
https://www.hayakawabooks.com/n/n7cf76da25b03
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