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ワクチンに恐怖を感じる心理──『反ワクチン運動の真実: 死に至る選択』

反ワクチン運動の真実: 死に至る選択

反ワクチン運動の真実: 死に至る選択

最近、麻疹が流行っている。日本では一度ほぼ根絶状態まで持っていった麻疹だが、他国ではまだまだその猛威を奮っており、ワクチンや予防接種の状態が万全でなければ簡単に輸入してしまう。さらに、感染がまた起こったのは、日本では現在MRワクチンの接種回数を2回に定めているが(1歳から2歳までに1回、5歳から6歳までに1回)、一時期この回数が1回のみだったことなどが関係しているとみられている。

僕も本書を読むまでは知らなかったのだが、こうした状況は、アメリカではさらにひどいことになっているようだ。2009年から10年の間にニューヨーク市とその周辺で3500件のおたふく風邪が報告され、10年には百日咳で子ども10人が死亡した。12年前半、ワシントン州では百日咳が前年比1300%増となり、14年アメリカでは600件以上の麻疹が報告されている。日本以上に致命的な状況が続いているわけだ。

20世紀初頭、アメリカでは毎年幼い子どもを中心としてジフテリアで1万2千人死に、2万人の赤ちゃんが風疹のために盲目、難聴、知的障害を患って生まれ、1万5千人の子どもがポリオで身体麻痺、1000人が死亡するのが常だっだ。人類はワクチンを開発することでこうした病気に終止符を打つことができた──はずだったが、そううまくはいかないようだ。『だが、現在子どもにワクチンを打たないという選択をする親がどんどん増えているため、中には再流行しはじめている病気もある。』

フィリピンは一年に3万3千人が麻疹にかかる麻疹大国だが、そういう国に免疫を持っていない旅行者が行くとそこで感染し、さらには自国に持ち帰って、予防接種を打っていない人たちにうつし、あっという間に局所的パンデミックになってしまう。ではなぜ予防接種を打たないのか? といえば、一時的に根絶したせいで病気を怖がっていなかったり、ワクチンや医者そのものに不信感を覚えていたり、副作用を不必要に怖がっていたりする。本書はそうした実態を明らかにしていく一冊である。

どうしてこうなってしまったのだろう? どうしてワクチンが私たちを救ってくれるものではなく、恐れなくてはならないものだと考えるようになってきたのだろう? その答えを探ると、アメリカの歴史上最も強力な市民活動グループにたどり着く。一九八二年に生まれたそのグループは、近年感染症が流行して死者も出しているのに米国内でも世界でも信者を集め続けている。

反ワクチン運動

そう、アメリカでは強烈にワクチンへと反対する大きな運動があるのだ。その発端となったのは1982年に放映された1時間のドキュメンタリー番組『DPT──ワクチン・ルーレット』。これは、学校にいく全ての子どもがDPT(ジフテリア、百日咳、破傷風の3つの病気の頭文字)の予防接種を受けるが、そこで恐ろしいダメージを受けることもあるのだと主張し、恐怖を煽り話題になった番組で、これをきっかけとして一般の人々に”ワクチンを打たない”という選択が広がっていってしまうことになる。

番組は事実に沿わぬデマを撒き散らし、いたずらに恐怖を煽り立てる内容だったが、医師の中でも同調する者たちが現れ始め、79%が受けていた予防接種が1977年には31%に急落。10万人以上の子どもが百日咳にかかって5千人が入院し、36人が死亡した。その恐怖は日本にまで広がり、厚労省がワクチンを一時中止させた結果、百日咳による入院数と死亡数が10倍に増加した。『全国放送のテレビ番組が親たちに百日咳ワクチンの危険性を警告し、保証を求める親たちが親の会を結成し、メディアが不当に苦しむ親たちを支援すべく怒りの声を上げ、ワクチンの被害がメリットを上回るのではないかという修復不能な終わることのない疑惑が生まれたのである。』

百日咳ワクチンを打った直後に知的障害が起きた、熱が出た、けいれんが出たといって多くの人間がその原因と結果を因果で結びつけたが、実際にはけいれん発作は特に1才児未満の子どもにとってはよくあることだし、熱も頻繁に出る。後に明確に否定されることになる「ワクチンのせいで知的障害が起きた」も、当時はまだまだキチンと判断できる状態になく、恐怖だけが無闇矢鱈に増幅させられていった。

嘘をつく側、勘違いで騒ぎ立てる側のコストはごく少ないが、それが本当に勘違いなのかどうかを検証するのには莫大な時間と金といったコストがかかるから、こうしたデマと検証の戦いは常に後者が不利である。反ワクチン運動家によって起こされた、1980年代の訴訟を通じて多くのワクチン製造企業が廃業に追いやられ数社しか残らなかった結果として、以後周期的にワクチン不足が起こる一因となっているという。

ワクチンを打たない自由

存在しない副作用があるといい、実際にありえる副作用のリスクを大げさに喧伝するのは完全に悪の所業だが、思想的、宗教的理由によってワクチンを打たない自由は許されるべきなのだろうか。アメリカでは2010年までに、21州が予防接種の思想的な免除を許しているが(宗教的な核心に匹敵する強さで心情を持っているなら、宗教団体の一因でなくても予防接種の免除が与えられる)、ワクチンを打たないことによって自分や自分の子どもだけではなく、他の子どもをリスクにさらしているのである。

ではどうしたらいいのか

反ワクチン運動が出てくるのは、正直必然的な側面がある。ワクチンが義務化され感染症が劇的にると、感染症に変わって実在+非実在のワクチン副作用が注目をあつめるようになり、予防接種率は下がる。また、周囲のワクチン接種率が高くなれば高くなるほど、ワクチンを接種しなかった場合のリスクは下がる。その結果として、ワクチンを接種しなくたってぜんぜん問題ない! だからわざわざワクチンを打って副作用のリスクに怯える必要なんてない! という誤解も湧いて出て来るのだ。

ではどうしたらいいのか。科学的な啓蒙を続けるのは当然一つの手だが、それは完全ではない。『知ってるつもり――無知の科学』では、反ワクチン思想を持つ親を集めた実験で、それぞれ違った形でワクチンを打たないことの危険性を伝える4グループに分け、ワクチン接種をしたいと考えるようになったかを調査したが、どのグループも考えは変わらなかった。科学的にどれほどワクチンが安全で、風疹や麻疹の恐怖を伝えようとも、無駄であるどころかさらにワクチンを拒絶するようになった。

『知ってるつもり――無知の科学』では、人の知識や信念は周囲の人々、コミュニティによって決まるので、個人ではなくコミュニティ全体へと働きかけよと説く。本書でも同様の事例が紹介されている。結局のところ、何もかもを解決してくれる銀の弾丸のような方策などないのだから、地道に続けていくほかなるまい。日本の読者にとっては、期せずしてタイムリーになってしまった本という感じだ。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp