基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

異様な韓国文学──『鯨』

鯨 (韓国文学のオクリモノ)

鯨 (韓国文学のオクリモノ)

この『鯨』は韓国作家チョン・ミョングァンによる文学作品である。「今」の世代を代表する作家たちの選りすぐりの作品を紹介するというコンセプトでスタートした〈韓国文学のオクリモノ〉シリーズの最終巻(第六巻)で、読み終えた直後の感想を率直に述べれば「またトンデモナイ作品を最後に持ってきたもんだな」あたりになる。

これはいったいどのような作品なのか、とても一言では言い表せぬ。あえていうなら特異な運命を歩んだ二組の母と娘の物語といったところだろうが、そういうレベルの話ではない。〈韓国文学のオクリモノ〉シリーズに本書を入れるきっかけとなったのは、編集部の人間が韓国で書店員や出版関係の人に「とにかく、面白い小説を紹介して欲しい」と頼んだ結果、多くの人が本書を推薦したからだという。実際、信じがたいほどにおもしろい一冊だ。読み始めたらあっという間にその語りの魅力に引きずり込まれ、何が何だかわからねぇとぼやきながらも最後まで到達していることになる。

物語の舞台は恐らく1920年代から2000年あたりの韓国だ。作中では韓国のさまざまな文化、慣習、歴史が取り込まれているが、実は”韓国”という国名も、具体的に実在する韓国の地名も一切でてこない。そのためどこか無国籍な雰囲気があり、幻想的な国のようにも感じ取れる。何しろ作中で起こることも、最初は現実的な内容なのに、ことが娘時代へと移ると100キロを超える巨体の動物たちと心を通わす唖のシャニ、親に目を一つ潰されその後の人生で蜂たちをコントロールする力を得た一つ目などとても現実とは思えない存在が増えていくことも関係しているのだろう。

あらすじ

物語は次のように始まる。

 後に大劇場の設計を手がけた名建築家によって初めて世に知らされ、「赤煉瓦の女王」と呼ばれたその煉瓦女工は、名を春姫(チュ二)といった。戦争が終結にむかっていた年の冬、彼女は一人の女乞食によってうまやで生み落とされた。この世に出てきたときはすでに七キロに達していたチュニの体重は、十三歳を迎える前に百キロを超えた。唖者だった彼女は自分だけの世界に孤立して一人寂しく成長したが、義父である文から煉瓦作りのすべてを学んでいた。八百人もの命が奪われた大火災の後、彼女は放火犯として逮捕され、刑務所に収監された。囚われの時間は残酷だったが、彼女は長い獄中生活の果てに、煉瓦工場に戻ってきた。そのとき二十六歳だった。

基本的にはこれだけの話ではある。チュニの母はクムボクといい、これがまたトンデモな人物であった。男を惑わす特異な匂いを身にまとい、出会う男を次々と狂わせ、不幸な運命に叩き込んできた。クムボクの最初の男は、彼女が住んでいた村に時折やってくる魚屋であった。類まれな商才を発揮したクムボクは魚を売るだけでなく干物に加工して売りつけるという加工業に投資し、多くのカネを得ることになる。

その後彼女は魚屋を捨て荷役夫と暮らすようになり、次は劇場を持つヤクザと、次は乞食となり、、新天地であるピョンデの開拓に乗り出し、そこで突然なぜか煉瓦工場を作り、かつてヤクザと出会った時に衝撃を受けた劇場を(多くの反対を押し切って)作り、突如男に華麗なる転身を遂げ元娼婦の美女とつきあい始め──と、どんどんとわけがわからない方向へと進み続けていく。その間に、誰の子かすらもよくわからぬチュニを生み、彼女はその類まれな身体を活かして煉瓦作りに邁進するのだ。

語りの魔力

いったいなぜ突然煉瓦工場を作ろうと思ったのか? なぜ劇場を? なぜ男になろうと思った? などなど疑問を覚えずにはいられない展開が次々と起こるのだが、それがすべて強引に納得させられてしまうのが語りの魅力、というか魔力なのだろう。

 クムボクはものごとを深く考える女ではなかった。彼女は自分の感情に忠実であり、自らの直感を、たとえ理屈に合わなくとも愚かなまでに信じた。彼女は鯨のイメージにとらわれ、コーヒーに耽溺し、スクリーンの中にはばかることなく没入し、恋愛にすべてを賭けた。彼女に「ほどほど」という言葉は似合わなかった。火のように燃え上がらなければ恋愛ではなかったし、氷のように冷たくなければ憎悪ではないのだった。

本書の語りは一人称でも神視点の三人称でもなく、最初に引用したように、後に「赤煉瓦の女王」として有名になるチュニを追う伝記のような体裁で書かれていく。そのため、語り手であってもこの不思議な力を持ったチュニが、実際どのような人物であったのか、母親のクムボクに対して何を思っていたのか、といったことは確定しないままである。神でもなければ一人称でもなく、チュニは唖者で何も語らなかったから、彼女が本当のところ何を考えていたのかは我々は(語り手も)想像するしかない。

たとえどれほど(物語的に)不可解な出来事が起こっても、語り手自身すらもいったいこれはどういうことなのだろうか? わからんわからんと問いかけることで、読者と語り手の間には一種の共犯関係が成立していくのである。もちろんそれだけにとどまらず、語りは時に時間が前後し、乞食の日々や物のようにレイプされ続ける、男に虐待を受けるといった暗黒の日々や、動物と会話し蜂を操る女たちを、感情にぴったりと吸い付いていく軽やかな筆致で、すべてを”当たり前のように”描き出してみせる。

 一つ目が外に出ながら口笛を吹くと、谷から蜂の群れが押し寄せてきてまたもや工場一体を真っ黒におおった。彼女は工場を見おろせる丘にたてこもって蜂を思いのままに操り、人夫たちはまた仕事をやめて宿舎に逃げてしまった。

読んでいる間、どれほど荒唐無稽な話であっても、”何か底知れない事実の伝記を読んでいるんだ”という感覚が消えなかった。偶然に左右され、お約束的な因果関係の繋がりがないからこそ、巨大なリアルを体験しているような感覚に落ちていく。

おわりに

凄まじい勢いで時は疾走していき、物語のメインがチュニになると、話はずっとシンプルになる。若い人生の多くを彼女は大火災の犯人として刑務所で過ごし、その後はずっと煉瓦作りに賭ける人生だから、その生涯はシンプルだ。だが、自ら語ることもなければ文字も残さなかった彼女の人生には多大な解釈不可能な領域が残っている。

なぜそこまで煉瓦にすべてを賭けていたのか。その果てに凄まじい煉瓦を作り上げ、彼女はそこに絵を描いたが、そこにはどのような意味が込められていたのか。語り手はその解釈不可能な領域を強引に解釈するのではなく、あくまでも保留にして周囲に残された痕跡をただひたすらに描写することで浮かび上がらせようとする。

最後の最後までチュニの生涯を追ったとき、その悲惨とも幸福とも言い切れない結末には思わず涙が流れてきてしまった。最後の一文字に至るまで一様な解釈が困難な物語だ。ただひとついえるのは、とてつもなくおもしろい! ということのみである。