基本読書

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『ストーナー』の著者による、恐ろしいほどに美しい物語──『ブッチャーズ・クロッシング』

ブッチャーズ・クロッシング

ブッチャーズ・クロッシング

『ストーナー』が”再発見”されたジョン・ウィリアムズの第二作目がこの『ブッチャーズ・クロッシング』である。『ストーナー』は農家の息子だったウィリアム・ストーナーが大学へ進み、文学に出会い、一生を終えるまでの物語だが、これを15年に読み終えてから僕はこの作品を人に薦めまくっていた。薦めまくっていたというか、本をプレゼントするような機会があった場合、迷わずこの本を渡していたのである。
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それは単純に、この『ストーナー』という物語がおもしろいからだし、同時に、失敗の多い、妥協と諦念に彩られ、しかしささやかな達成も訪れる、複雑な陰影を持ったストーナーの人生には、読む人は誰であろうとも奥底で響き合うだろうと思ったのだ。実際、渡した相手は全員、そこに響くものを感じ取ってくれたようである。

そんな『ストーナー』の前作にあたるのがこの『ブッチャーズ・クロッシング』である。『ストーナー』とは打って変わって、こちらは西部開拓時代の荒れ狂う自然を相手にしたバッファロー狩りの物語だ。バッファローを追い詰める、殺した後皮を剥ぐ時の描写は、著者はバッファロー狩ったことあるでしょ? じゃなかったらこんなん書けないよ! と確信してしまうほどに緻密で(たぶん狩ったことないと思う)、その迫真の筆致は、趣向は違えど『ストーナー』と比べても遜色ないレベルである。

登場人物たちが飢えに苦しんでいる時は読んでいるだけでこちらも悶え苦しまずにはいられず、凍え死にそうな時は息がつまるように引き込まれ、読者もまた過酷な大自然を体験していくことになる。読んでて単に登場人物への共感を覚えるだけでなく、飢えや寒さを感じるほどに引き込まれるのは、滅多に味わうことができない経験だ。

あらすじとか

舞台となるのは19世紀、1870年代のアメリカ西部だ。ボストン生まれでハーバード大学に通う三年生だったアンドリューズ青年は、ある時思想家ラルフ・ウォルドー・エマソンの自然観に共鳴することで、自然を知り、その中で暮らすことに憧れて、知人を頼ってブッチャーズ・クロッシングへとやってくる。ここへくれば、想像したとおりに、揺るぎない自分に出会えるのだと夢を見て。今風にいえば頭ぱっぱらぱーな学生が自分探しをしに思い切って大学を中退して田舎に行きましたみたいな感じだ。

だが、何しろ19世紀の西部開拓時代の話だから「田舎に来ちゃいました、てへ」ですむ話ではない。アンドリューズ青年はブッチャーズ・クロッシングへいって「ここに来たのは、できるだけたくさん自然を見るためです」「自然のことを知りたいんです。どうしても」といって、ここをよく知る凄腕の猟師を一人案内してもらい、そのまま流れで、彼が金を出資する形で遠く離れたバッファローの群れを狩りにいく、猟へと随行することになる。当時バッファローの皮に高値がついており、群れを仕留めて大量に持ち帰ることができれば一気に大金を儲けることが可能だったのだ。

過酷な自然の中で生きる

その後、19世紀アメリカの未開拓な西部がどれほど危険な場所なのか、読者はアンドリューズ青年と一緒に体験していくことになる。正直、狩りとはいっても2〜3週間ぐらいのもんで死ぬこたないわけでしょ? 最初は余裕じゃんと軽く考えていた(アンドリューズじゃなくて僕が)わけだけれども、全然そんな感じじゃない。凄腕の猟師であるミラーが10年前にみたバッファローの群れがいた場所へと向かうわけだが、何しろ地図もないしうろ覚えだから絶対確実な道というものがまず存在しない。

アンドリューズを入れて4人のチームは、道中で「川が常にあるが1週間余分にかかる大回りのルート」と「水場があるか不安定だが、近道となるルート」を選択する場面に遭遇する。リーダーであるミラーは水の在り処を知っているから大丈夫だと主張し短縮ルートを選ぶのだが、全然大丈夫ではなく、水場は見つからず、強烈な喉の渇きに苛まれることになる。彼らは運搬用の馬や牛を連れており、それがまた大量の水を消費し、渇くのも速いので、その描写がおぞましいほどに過酷である。牛たちの舌は腫れ、ミラーは少しでも消耗できないとばかりに一頭一頭丁寧に水をやる。

 牛の頭が上がると、ミラーは牛の上唇をつかんで上に引っぱりあげた。腫れた暗紅色の舌が口の中で震えていた。ミラーは、大きくふくれ上がっているざらざらの舌を、またもていねいに濡らしてから、喉の奥まで手を突っ込んだ。外からは手首がみえなくなった。次に手を引き抜き、布をきつく絞って、舌の上に数滴、ぽたぽたと水を垂らしてやった。牛の舌は乾いた黒いスポンジのようにそれを吸収した。

あと一歩歩けば水場が現れるかもしれないし、現れないかもしれない。牛たちに水をやればもっと先に進めるかもしれないが、牛たちがもうだめならばその水を少しでも人間が飲んだほうがいい。そうしたギリギリの緊張感と決断を求められる場面が持続し、ついにアンドリューズらはウイスキーまでをちびちびと飲み始める。もちろん乾きなんか癒えないからどんどん身体は衰弱し、死が間近に迫り続ける。

たとえそこを乗り越えてもアンドリューズらの狩りは安泰とはいかない。何百、何千頭もいるバッファローの群れをどう追い詰めるのか。殺して、皮を剥ぎ、殺して、皮を剥ぎ、毎日のように肉を食べ続け、作業はどんどん効率化されていく。自然の中にバッファローの死体が積み重なっていく。冬がきて雪が積もってしまうと、次の春がくるまで数ヶ月単位そこで足止めを食らうことになる。彼らは、冬になる前にバッファローを殺し尽くして、ブッチャーズ・クロッシングへ戻ることができるのか。

ここに至ると「別にバッファロー狩って2、3週間で戻ってくるだけでしょ?」と思っていたのがいかにバカだったことかがよく実感できる。人の手が一切入っていない大自然に分け入っているのである。そんなもん、生きて帰ってくるだけでも大仕事なのだ。アンドリューズを中心とした物語とはいえ、三人称視点の記述は各登場人物の内面にはあまり深く踏み込まず、あくまでも客観的事象として何が起こっているのかを淡々と描写していく。そのおかげで、次から次へと迫りくる自然の脅威、積み上がっていくバッファローの死体の異様さが際立っていくのも凄まじい。

おわりに

ブッチャーズ・クロッシングへと彼は戻ってきて、狩りに出ていた間にすべてが激変してしまった町の人々を発見する。はたして、無垢なる情熱に突き動かされたこの地方へとやってきたアンドリューズ青年は、そこで何を見出すのだろうか。アメリカの歴史と密接に関連している話ではあるが、ここで描かれていく自然との闘争は、孤立、対立、寒さ、疲労が次々と襲いかかるサバイバル物として単純におもしろいし、大きく変化していく世界と、そこから取り残されていく人々や、そこで描かれていく過酷ながらも恐ろしいほどに美しい風景には、時代を超越した素晴らしさがある。

ストーナー

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