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一篇の詩のような戦争文学──『奥のほそ道』

奥のほそ道

奥のほそ道

旧日本軍と大量の捕虜によって建設された泰緬鉄道は、コレラやマラリアの流行、休みなく続く過酷な労働状況と拷問による死者の多さから英語圏では〈死の鉄路〉の名で知られている。本書の著者であるリチャード・フラナガンの父はここで奴隷労働に従事してなんとか生還したうちの一人で、本書はそうした実体験を元に、〈死の鉄路〉建設に関わった人々の人生の様相を描き出していく長篇小説だ。地獄のような現場で何が起こっていたのか。そこから生還した時、人はどのように生きていくのか。

父親の実体験を元に描いているとはいえ、小説としてはそうした個人の体験談の範囲を大きく超えたものだ。時系列が複雑に前後しながら、奴隷の指揮官となって行動する外科医のドリゴ・エヴァンスを中心人物とし、日本軍将校ナカムラの視点など、敵味方という区分けをせずにただただこの状況を共有していた人々を描き出していく。象徴と隠喩が散りばめられ、詩で全篇が紡がれていくかのような静かで圧のある文章で、読み通すのにエネルギィを必要とする、だが、それだけの価値のある一冊だ。

 ドリゴ・エヴァンスは、人生が詩のイメージのなかで想像され生きられる、あるいは彼にとってますますそうなのだが、人生が一篇の詩の影響を受ける時代に育った。テレビ時代が到来し、それとともにもたらされたセレブリティ──知りたいとも思わない者たちだとドリゴは感じた──という概念はその時代を終わらせたのかもしれないが、それでも時折詩を糧にし、詩の優美な神秘性をもって己れの人生を表現する者たちの明晰さに、深く考えるわけではないものの、イメージにぴったりの題材を見出すこともあった。

物語のメインは無論ドリゴ・エヴァンスが〈死の鉄路〉を建設していく場面なのだけれども、それと交互にドリゴ・エヴァンスの戦前の様子もまた描かれていく。もともとドリゴ・エヴァンスにはエラという相手がいたのだが、たまたま叔父のキースの妻であるエイミーと出会って惚れ込んでしまい、罪悪感を抱えながらも熱狂的に二人は不倫関係へともつれ込んでいく。ドリゴ・エヴァンスが捕虜になり連絡がとれなくなったことによって両者の関係性は一旦切れてしまうが、その間も二人はお互いを思い合い、その間何が起こっていたのかが、戦後のパートで語られていくことになる。

過酷な奴隷労働

奴隷労働のパートは、読むのがキツすぎて一度はもうここから先を読み進めるのは無理だと諦めたぐらいだ。過酷な状況であることがキツイというよりかは、過酷な状況の出口がまったく見えないことがツライ。出てくる人物みな上に支配されており、どこにも行き場がなく、無意味な死へと向かって疾走しているような息苦しさがある。

そもそも鉄道をひくのが困難な地形であることに加え、捕虜を人とも思えない施策の数々、突如として4ヶ月の工期の短縮が決まり、「スピードー」がはじまる。このスピードーが発令されると休日はなくなり、作業時間はどんどん長くなる。『健康な者と病人の区別はすでにあいまいになっているのに、スピードーによって、病人と死にかけている者の区別がさらにあいまいになった。』昼も夜も働かされ、ただでさえ風呂もないような過酷な環境で、赤痢が蔓延し、人はどんどん死んでいくことになる。

そうした状況で日本軍側へと悪意を募らせるような構図になっていれば読む方としても気楽だが、決してそうはなっていない。淡々と「ここで何が起こっているのか」という客観的情景が描かれていき、日本軍側の視点も挿入されると、彼らもまたこの場所、戦争、信仰に支配されていることがわかってくる。そうであるがゆえに、誰かを恨むこともできず、ただ地獄のような状況を耐え読み進めていかなければならない。

ドリゴ・エヴァンスはそうした状況下で、期せずして部下たちから「理想の、強い指揮官である」との幻想を抱かれてしまい、自分自身が実際にそうした人物であるかどうかに関わらず、架空の強さを演じる必要に駆られていってしまう。彼に与えられたステーキが、喉から手が出るほど食べたくとも、部下に分け与える。無理な命令に対して、これまた無駄であると考えながらも抵抗してみせなければならない。

 またぐっと飲み込む──まだ口は唾液でいっぱいだった。彼は自分のことを、自分が強いとわかっている男だとは、レクスロスのような強い男だとは思わなかった。レクスロスは、ステーキを自分の権利だとして食べ、そのあと飢えた男たちの眼前で満足げに追いはぎのような歯をほじるような男。対照的におれはなにを受け取る資格もない弱い男、大勢が期待を込めて強い男という像をつくり上げているだけの弱い男だ。理にかなわない。彼らは日本人の捕虜であり、おれは彼らの希望の囚人だ。

印象的なのが、500人の捕虜を用意しろと繰り返し述べるナカムラとドリゴ・エヴァンスの問答だ。捕虜数838名、うち87名がコレラに罹って隔離所におり、さらに179名が重病のため病院にいる。229名が体調が悪く軽い作業しかできない。したがって、線路で作業できるのは363名だとナカムラに向かって訴える。だが、ナカムラは500と繰り返すのみだ。日本人が持つ信念がおまえたちには欠けており、意志があれば健康はついてくるのだと言いながら倒れた捕虜を蹴りつけて働かせようとする。

おわりに

ドリゴ・エヴァンスの医学的見地に立った提案は無意味であり、天皇陛下のご意向であるといって交渉を無にしようとするナカムラを相手にすると、無常感のみがつのっていく。そうした状況下を生き延び、英雄として祭り上げられていくことは冒頭から明らかにされているが、彼は不倫相手だったエイミーと再会することができる、そもそも再会を望むのか。奴隷労働が与えた影響は人生にどのように作用するのか。

長い年月を経て築き上げられていく”家族”、一人の人間が持つ極端な悪性と善性についてなど、小説という形式でしか表現できない抽象的な概念が確かな語りと複雑な構成によって紡ぎあげられていく。いやあ、読むのは大変だったけれども得られるものも果てしなく大きい、忘れられない戦争小説となった。あ、『おくのほそ道』がどう物語に関与してくるのか書いてなかったけど、それは読んで確かめてください。