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一度も会ったことのない幼馴染を探している──『君の話』

君の話

君の話

恋愛ゲーム(というかギャルゲーとかエロゲー)のヒロインというのはだいたいみんな何らかの闇だったり問題を抱えていたり主人公と幼馴染だったりして、たいてい相当な美少女で、健気で誠実でありこちらを最終的には裏切らないようにみえる。そしてルートの終わりで問題を解決することでラブラブになるものだが、それは虚構、作り上げられた物語なのであって、現実にはそんな都合のいい存在はいないわけである。

じゃあ、現実にそんな存在が目の前に現れるとしたら、どのような状況が仮定されるだろうか。『君の話』はそうした状況に巻き込まれた語り手を中心に、”究極のヒロイン”を解明していく物語である。著者は『三日間の幸福』や『恋する寄生虫』など科学的知見に裏打ちされた特殊状況下での恋愛譚を中心にこれまでメディアワークス文庫で本を出してきた三秋縋さんで、僕はこの『君の話』が面白すぎて慌てて過去作に手を出した次第である。題材自体はシンプルなのだが、その心情の描き込み、構成・演出の細やかさが半端なくシンプルな地力でぶん殴られたような驚きがあった。

舞台とか

舞台となるのは義憶と呼ばれる”偽の記憶”を多くの人々が購入できるようになっている世界。旅行をするのではなく旅行した義憶を買う、結婚式をあげるのではなく結婚式をした義憶を買う。ぱっとしない青春しかおくれなかったのなら、もっと華々しく自分好みの義憶を買う──それこそ、モテモテで甘酸っぱいデートをしたような記憶など──といった”虚構を人生に取り込む”ことが一般的に行われているのだ。

え、なにそれめちゃくちゃ寂しいじゃん! とも思うが、かけがえのないフィクションの(小説でも映画でも)受容体験が多くの人にとって人生の癒やしとなっており、実際にそれが自分にとって親身に感じられる大切な記憶となることを思えば、それはそこまで不思議な流行でもないのだろう。『それはときとして、本物の無償の愛や成功体験の影響を上回る。一人一人の個性に合わせて適切に調整された疑似記憶は、ノイズだらけの実体験よりもダイレクトに人格に働きかけるからだ。』

さて、とはいえ義憶は義憶であり、投入されても即座に実際の記憶と混同して何が現実だったかわからなくなることはないようだ。美しい彼女がいた記憶を植え込んだとして、それがどれだけ尤もらしく思えたとしても、たとえば卒業アルバムなんかを確認するといないわけなので、最低限そうやって確認することはできる。本作の最初の語り手である19歳の天谷千尋青年も、自身に究極のボーイ・ミーツ・ガールと言えそうな、美少女との甘い過去の義憶を挿入するわけだが、その経緯は少し複雑だ。

あらすじ的なあれ

天谷千尋青年は、機能不全的な家庭で育ち”何もない人生”を消してしまおうと、バイトをして「レーテ」と呼ばれるエピソード記憶のみを消去する記憶改変ナノロボットを購入する。しかし、投与したはいいものの、おそらくは病院側の手違いで青春コンプレックスの解消のために用いられる、架空の青春時代の義憶を投入する〈グリーングリーン〉を摂取してしまう。(完全に余談だがこのグリーングリーンの元ネタはたぶんGROOVERから発売されたエロゲの『グリーングリーン』である。名作。)

通常は友人と楽しく過ごした記憶などが満遍なく配置される〈グリーングリーン〉だが、なぜか天谷千尋青年に投入されたものは一人の幼馴染に関わるものに絞られていた。その名は夏凪灯火というこれまたエロゲのメインヒロインっぽい名前をしており、当然のように美しい少女である。物語の前半部の多くは、そうしたメインヒロイン的少女と天谷千尋少年の甘酸っぱい義憶に割かれている。「私たち、つきあってると思われてるらしいよ」という語りから始まる、夏祭りでの二人の思い出。告白をするわけでもなく、本当にただの幼馴染か試してみようかとキスをした思い出の数々。

読んでいて感心してしまったのが、この義憶は作中作であって、読み手としてはそこにおもしろさを感じにくいものだと思うのだけれども(作中作って、ようは作品の中のある機能のために用いられる部品、手段にすぎないのでそれ自体のおもしろさにあまり焦点があたらないからなんじゃないかな)、本作の場合、本当に”こんな女の子がいたら完全に参っちまうよなあ”と納得せざるをえない出来なんだよね。

それは天谷千尋青年も同様で、望んだ記憶でもないのに、あまりにもそのイメージ/虚構が鮮烈で、街中に夏凪灯火の面影を探すようにまでなってしまう。”一度も出会ったことのない幼馴染を探している”のだ。村上春樹の短篇「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子と出会うことについて」であり、書名である『君の話』と関連し新海誠監督の『君の名は。』でもある。出会うべきであった、出会うことが運命づけられている感覚だけが強く残る、100パーセントの女の子を探している──。

そして、実際に彼の目の前に”記憶の中の彼女”が現れてしまうのである。

 一度も会ったことのなかった幼馴染がいた。僕は彼女の顔を見たことがなかった。声を聞いたことがなかった。体に触れたことがなかった。にもかかわらず、その顔立ちの愛らしさをよく知っていた。その声音の柔らかさをよく知っていた。その手のひらの温かさをよく知っていた。

 夏の魔法は、まだ続いている。

疑念

とはいえ、彼女の存在は義憶で植え付けられたものなのだから、現実に存在するはずがない。だが、触れもするから、幻覚というわけでもない。現実に現れた夏凪灯火は、記憶の中にいる彼女のままに、彼に献身的につかえ、手料理も作ってくれ、ひどい言葉を投げつけられてもまるでうろたえることもなければ見放すこともない。はたして、彼女の存在はいったいなんなのか。何らかの詐欺なのか。はたまた、”かつてあった記憶を忘れてしまい、それを義憶だと思いこんでいる”だけなのか?

普通の人間なら美少女が突然幼馴染で自分のことを好いてくれているというのなら別に(詐欺でなければ)それが虚構だろうがなんだろうがどうでもいーかとなりそうなものだが、天谷千尋青年は幼少時代を義憶を乱用して過ごす両親の元で過ごしており、虚構への強固な拒絶感を持っていた為、すぐには”都合の良い現実”を受け入れられずに目の前の現実の虚構性をつぶさに検証しはじめることになる。これは記憶の物語であると同時に、虚構嫌いに虚構の力を認めさせる、”フィクションの持つ力”についての物語でもある。いったいそこにはどれほどの力があるのだろうか。

おわりに

ここでは後半の展開について一切触れられないが、反転に次ぐ反転で激しく揺さぶられ続けることになるだろう。予想がつかないという展開ではないのだけれども、(僕が)電車で降りる駅を逃すほど先が気になって仕方がなく、それがむしろ恐ろしい。

夏の読書にぜひどうぞ。

恋する寄生虫 (メディアワークス文庫)

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