- 作者: グレゴワール・シャマユー,渡名喜庸哲
- 出版社/メーカー: 明石書店
- 発売日: 2018/07/31
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
ドローンは米軍の公式用語では、「遠隔的な意志自動的に制御される陸上、海上ないし航空の乗り物」と定義されている。無人で外部から人間が遠隔操作するものもあるし、完全自律行動をするドローンもまた存在する。重いものを運ぶことも出来るし、近年の画像認識技術の発展や深層学習/機械学習技術の発展によって攻撃判断の自動化もある程度ならすでに可能である。そうなると、当然だけど便利なわけだ。
戦場に人間が行くとどうしたって死ぬリスクは避けられないが、究極的な話ドローンを派遣し攻撃させれば人的損害のリスクはゼロにできる。『米空軍の将校であるデイヴィッド・デブチュラは、基本となる戦略的な指針を次のように述べた。「操縦士なしの航空機システムの真の利点は、脆弱性〔ヴァルネラビリティ。被害を受ける可能性のこと〕を発揮することなく、力を発揮することにある」。』と。そんなの当たり前じゃんと思うかもしれないが、ただそれだけの事が戦争を大きく変える。
これまでも脆弱性ゼロ攻撃は到達点のひとつとして模索されてきた道ではある。ただ現実的な精度、コスト、距離などの問題として、その達成は困難であったのが、本格的な武器を装備した飛行型ドローンが登場し状況が一変しつつある。本書『ドローンの哲学』は、そうしたドローンに対して哲学的な探求を行う一冊である。哲学とは何やら大層な物言いだが、ドローンを扱うことにより精神的、倫理的、法律的問題を仔細検討してみようという話で、特段難しいわけではない(原題はドローンの理論)。
この武器は、戦闘行為を抹消するほどにまで既存の遠隔戦争のやり方を延長し、かつ徹底化する。しかしそれゆえ、ここでは「戦争」という観念そのものが危機に瀕することになる。そこで提起される中心的な問いはこれだ。「ドローン戦争」が、正確にはもはや戦争ではないのだとすれば、それに対応する「暴力状態」とはどのおうなものなのか。
攻撃型ドローンの蔓延による危機
ドローンが大量に戦場に投入されることは、はいったい何を変えるのだろうか?
たとえば、これまで想定されてきた戦争法の規定にそぐわなくなるばかりか、そもそも”戦争”や”戦闘”それ自体の観念が変わりかねない。たとえば武器を装備した移行型ドローンというのは、一側面的にみれば人道的な武器だ。何しろ使用者サイドの人間を殺さないのだから。行き着くところまでいけば、無人機同士の戦闘が当たり前に行われるようになって、誰も死なない理想郷のような戦争が実現するかもしれない。”だがそのまえに起こることは何か?” 無人機がどの国家にも等しく平等に存在するものではない以上、その途中経過で起こるのは一方的な”狩り”に他ならない。
一方には遠隔攻撃舞台が存在するが、一方にはナパーム弾やマスタードガスしかないとなれば、そこで起こるのは帝国主義的な征服である可能性が高い。また、ドローンはミサイルを発射したり爆弾を投下したりするが、これが国際法上許されるのは武力紛争における敵対勢力に対してのみである。パキスタンなどで米軍がドローンで反政府ゲリラを狙って行っている「テロに対する戦争」は、はたして武力紛争なのか。米軍は9.11からの流れを組んで自衛権の延長線上に立ってそう主張しているわけだが、場合によってはグローバル規模のマンハントが容易く正当化されかねない。
ドローンの死倫理学
そんな感じの議論が色々と行われていくわけだけれども、主要なトピックのひとつがドローンの死倫理学と本書の中で呼ばれるものである。武装ドローンの使用によって戦争が一方的な処刑へと変化し、構造的に敵からあらゆる闘争の可能性を奪い、そうであるがゆえに『この武器はそもそも武器による抗争のために想定されていた規範的な枠組みの外側へいつのまにか逸れてゆく』。戦争についての倫理学は、死刑についての倫理学、つまり死倫理学へと至る──という文脈がその言葉の背後に存在する。
ドローンは人道的な兵器であると言われる。これは使用者側の人的損害が出ないこともあるが、倒すべき相手もまた、標的指示の精緻化によって最小の被害に抑えられるということでもある。これは言われてみれば正しいかなと思う説得力を持っており、国民からすれば歓迎すべき事態、ドローンとは倫理的な武器なのだと(一見)みえる。だが、そこには幾つかの問題があるとドローンの死倫理学の一言説は指摘する。
たとえば副次的被害が少ないとされているが、それは戦闘がそもそも行われた/行われている状況が前提の話である。ドローンがあったからこそ遂行可能な作戦が実行されている場合、その比較に意味はなく、事実上どこにでも派遣できるドローン──そのうえ損害も出にくい──では、容易く他勢力を攻撃するモラル・ハザードに発展しかねない。単純な話で、コストが下がれば需要が高まる。狩りによって得られるものが失われるものより大きくなれば、それは必然的に選ばれやすくなるからだ。
また、武力紛争における法規では民間人を直接標的とすることは禁じられているが、ドローンは”戦闘を無効化する技術”であり、それが赴く先では基本的に”戦闘”は起こっていない。ドローンは標的を精緻に見分けることができるというが、戦闘が起こっていない状況下で戦闘員を判別すべしというとりわけ困難な事態で仕事をするハメになるばかりか、”戦闘員”の拡大解釈、希釈化が行われる可能性さえある。
おわりに
海の向こうの誰かが戦闘員と誤認されて死んだところで、ふーんぐらいにしか思えないかもしれないが、その行き着く先は攻撃ドローンが我々の元へも派遣される、ぞっとするような未来である。どのような形の規制、新たな戦争法が必要かという議論が必要なのはいうまでもない。この記事では主に攻撃型ドローンについての言説をメインで紹介したが、他にも監視ドローン、ドローン操縦者の精神的重圧について、殺害に対して責任を負う人間が存在することを前提としている現行法と、それを無人ドローンがいかに蹂躙していくのかに対する考察などなど法的・倫理的な議論がコンパクトにまとめられているのでこの分野ではとりわけオススメの一冊だ。