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みすぼらしい探偵に落ちぶれたアドルフ・ヒトラーを描く、歴史改変奇譚──『黒き微睡みの囚人』

黒き微睡みの囚人 (竹書房文庫)

黒き微睡みの囚人 (竹書房文庫)

ヒーロー物の要素と第二次世界大戦以後の戦争を統合して描いた、ギーク&ポリティカルとでもいうような『完璧な夏の日』などの著者ラヴィ・ティドハー最新邦訳は、ヒトラーが失脚し、ロンドンに移り住んで探偵になった日々を描く改変歴史奇想譚だ。栄光の座を追われ、理想の追求も不可能となり、心の底から嫌悪するユダヤ人たちからも仕事を受けねばならなくなったみじめな彼の姿は、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に収容されている一人の作家が、生と死の境目で夢見た〝時間と場所を隔てた別世界〟のもので──と、なかなかに複雑な構造をとっている。

そうした、想像することで最悪の日々を耐え抜いている作家のアウシュビッツでの地獄のような日々(ヒトラーの探偵譚とは、交互に語られる)など、テーマ的にも描写的にもめっぽう重いが、「もし、1933年にヒトラーが首相となってはじめて行われた総選挙で、ナチスが負けたら?」というヒトラー以外の人々の変節も含む歴史改変譚としてよく練られ、探偵譚としてのキャラクター・文体のスタイルも格好良く、セリフの応酬も秀逸。また、ヒトラーのマゾヒスティックな側面など性的な部分もしっかりと調査した上で描き出していて、どこをとっても素晴らしい完成度である。

ざっくり舞台とかの説明をする

舞台となっているのは1939年のロンドンと、時間と場所を隔てた別の世界のアウシュビッツ。前者の世界では先に書いたような歴史の分岐があり、ドイツを追われた彼らはヨーロッパの国々に拒絶され、身分証もなければ未来への展望もないまま抜け道を見つけてイギリスへと渡ってきている。結果的にはヒトラーもそのうちの一人となったのだ。かつてアドルフ・ヒトラーだった男は、ロンドンではただのウルフと名乗っており(実際にウルフという偽名をヒトラーは使っていたことがある)、かつての仲間たちとは距離を置いて、家賃も払えないほど貧乏な私立探偵を営んでいる。

そんな彼のもとに、ユダヤ人女性から行方不明になった妹を探してほしいという依頼が舞い込み、金に余裕もないので悪態をつきながらも渋々引き受けることに。その調査の過程で、彼はアメリカ、ドイツ、イギリス、ロシアなど複数国家が絡んだ複雑な政治状況に巻き込まれていく。何しろ、落ちぶれたとはいえ人脈は豊富で、いまだに彼の知名度は衰えてはおらず、彼を利用しようと接触してくる人間は絶えないのだ。ルドルフ・ヘス、ヘルマン・ゲーリング、オズワルド・モズレー……その誰もが価値観・立場を変え、新しい人生を歩んでいるばかりに、昔の価値観を引きずり泥臭く探偵をやる(時折悪態をつきながらSMに興じる)ウルフの姿がより憐れに見えてくる。

「あなたは怪物よ。いいえ、怪物だったと言うべきね。いまのあなたは何者でもない」イザベラはささやいた。
「そうだ」ウルフが答えると、イザベラが手にしたベルトを振りおろした。ベルトが空気を切り裂いて彼の胸を打ち、バックルが皮膚に傷を刻みこんだ。「そうだ、そうだとも」

なにかっこつけながら叩かれとんねん

イフのおもしろさ

「もしこうなったら、あの人はどうなるんだろう?」というイフを堪能できるのが歴史改変譚の面白さだけれども、本書にもそうした要素が存分に埋め込まれている。たとえば、オズワルド・モズレーのイギリス・ファシスト同盟は勢力を増しており、マルクス主義打倒を宣言してイギリスの首相に立候補している。ヘルマン・ゲーリングは共産主義に傾倒し、ヒトラーが失脚したことでオーストリア=ドイツ同盟はユダヤ人の天国となっている。『マルクス、フロイト、そしてアインシュタイン。ウルフは、この三人が世界中のユダヤ民族という悪の三極に位置すると見なしていた。』

探偵譚、キャラクタのおもしろさ

本来の歴史から激動したこの世界でもやはり世界大戦の危機は迫っており、ウルフはヴァージルと名乗るアメリカの男からナチズムの残存勢力と糾合し、レジスタンスとするための象徴として勧誘を受けるが──と事態はどんどんカタストロフィックな方向へと向かっていくが、本筋はあくまでも行方不明のユダヤ娘捜索であるという〝探偵譚〟からブレないのがいい。そもそもなぜウルフがわざわざ探偵をやっているのかよくわからないが、彼なりの思想を持ってやってことが独白からよくわかる。

 実際にそんな質問を受けたこともないくせにと、わたしに同意しない人もいるだろう。でぶでまぬけのギル・チェスタートンはかつて、犯罪者は芸術家であり、探偵は批評家にすぎないと言った。あの男はカトリックの気取り屋で、食べるのにも意見を述べるのにもためらったことがない。そしてほかのすべてとおなじく、この件についても彼は間違っていた。混沌に秩序をもたらすのが芸術家の目的であり、その意味において探偵としてのわたしは間違いなく芸術家だ。犯罪者が損ない、探偵が修復する。

もっとも、思想・矜持としては立派であっても、彼の行動がそれにあまり追いついていない・現状、ろくに評価をされてもいないというのがまた憐れだが、彼自身が自分の能力の高さ、自分の偉大さについてはまったく疑っていないところもヒトラーの、キャラクタの表現としておもしろい。『すぐれた探偵とはどんなものかと問われれば──わたしはほかにいないほど優れた探偵だ──世界規模の混沌との戦いに立ち向かう兵士のようなものだと答える。』『ひとり殺せば殺人者と呼ばれ、百万人を殺せば征服者と呼ばれると書いている。わたしはかつて征服者だったのだ!』『そして生涯を通じてずっと混沌と戦ってきた!』のあたりなど、語りの熱量がまた凄まじい。

おわりに

こうしたウルフの日々は、基本的にはアウシュヴィッツの囚人である作家の想像、夢であるという体で描かれているが、いったい彼は労働と死のみが待ち受ける収容所の中で、何を思いながらこのような緻密な想像を築き上げたのだろうかといろいろ考え込んでしまうなど、想像する余地の広がっている豊穣な作品である。なにはともあれ、エンタメとして極上なので、気になった方にはぜひ手にとってもらいたい。