- 作者: アントニオ・ダマシオ,高橋洋
- 出版社/メーカー: 白揚社
- 発売日: 2019/02/01
- メディア: 単行本
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さて、これが何についての本なのかというと、簡潔に書けば感情や情動の世界についての話である。なぜ、いかにして情動が生じるのか。わたしたちはどのようにそれを感じるのか。脳と身体、そして感情や心はどのように結びついているのか。人間という種が生み出した特異な「文明」はどのような流れの果てに生み出されてきたのか。実はそれには、これまでは過小評価されてきた「感情」と、その前身たる「ホメオスタシス」が深く関わっているのではないか──と、そういったことを論じていく。
感情が、文化の最初の火花を飛び散らせたばかりでなく、引き続きその発展に重要な貢献をしてきたことを論じるにあたり、私は、心、感情、意識、記憶、言葉、創造的な知性を備え、複雑な社会を形成してきた現代の人類の生命を、早くも三八億年前には存在していた太古の生命に結びつける方法を探求してきた。この結びつきを確立するためには、進化の長い歴史のなかで、これら一連の不可欠の能力が出現した順序と経緯を明確にする必要があった。
「進化の長い歴史のなかで、これら一連の不可欠の能力が出現した順序と経緯を明確にする必要があった。」というのが重要で、まず「ホメオスタシス」が、次に「感情」が後に続く議論の基礎となっている。ホメオスタシスとはなんなのかを先に紹介しておくと、本文を引く形で説明すれば次のようになる。『何があっても生存し、未来に向かおうとする、思考や意思を欠いた欲求を実現するために必要な、連携しながら作用するもろもろのプロセスの集合を、ホメオスタシスと呼ぶ。』抽象的で何を言っているのかまったくわからねえと思うかもしれないが、「細菌を含む生物が生存するために行動するあれやこれや全般」ぐらいにとらえておけばいいのではないか。
少し具体的な説明をしよう。たとえば、人間は基本的に群れをなす生き物だが、実はそれは細菌も同じであるという。細菌は生存に必要な栄養素が豊富な環境では比較的独立を保って生きるが、栄養素に乏しい場所に生息する細菌は群れをなす。さらに、整然とならび、薄い被膜を形成することで集団全体を守ったりする。つまりある種の利他的な行動の萌芽がすでにそこにみられるのであって、こうした細菌の行動を本書では「ホメオスタシスのルールに従いながら単純に生きている」と表現している。
細菌には当然ながら心などないが、彼らは原初的な行動プロセスの集合体=ホメオスタシスにのっとり、人間や他生物がやるような「協調」行動をとっている。しかも、ある細菌の集団の中で協力しあわない「裏切りもの」がいるとき、細菌はその個体を遠ざけるという社会的な行動をとる。それは、我々人間や動物たちの社会の中でいくらでも見つけることができる行動だ。ということは、我々の現在の社会的、文化的性向は、ある程度の起源を原初の生物にまでさかのぼることができるのではないか。
さまざまな生物の行動には、協力と闘争をめぐる非意識的な基本原理を見出だせるが、人間の行動の自然な傾向は、この基本原理を意識的に精巧化するよう導いてきた。またこの基本原理は、長い進化の過程を経て、多数の生物種が、アフェクトとその主たる構成要素を構築するよう導いた。
では、そうした原初的なホメオスタシスからどのように今のような文化へと繋がっていくのか? として現れるのが「感情」である。アントニオ・ダマシオは「感情」は「ホメオスタシス」の心的な代理であると語っている。意味がわからんが、要するにホメオスタシスとは生存のための行動プロセスの集積で、ホメオスタシスが脅かされる状況=生存が脅かされる状況であり、そうし状況が感情的にはネガティブに表現され、逆にホメオスタシスに不備がない状態を感情的にプラスに感じるのだといっており、故に「感情」は「ホメオスタシス」の心的な代理であると語っているのだ。
つまり、生存に有利な状況や情報にふれると感情は快の方へ流れよりそれを繰り返そうと行動し(生殖など)、逆に生存に不利な状況になると感情は不快の方に振れるから今度はその状態から逃れようとして行動する(恐怖から逃れるなど)から、ホメオスタシスから発展した感情が動機となって、道徳規範が生まれ、芸術、哲学的探求、宗教的信念、司法制度、テクノロジーなどなどの発展を促したんじゃないの? と提起しているのだ。でもそれって結局イコールなんじゃないの? と思うかもしれないが、そこで「心的な代理である」と言っていた「心的」の部分が重要になってくる。
たとえば、感情とは主観的な経験であり、これは細菌は持っていない要素である。で、この主観的な経験はどこから生まれたの? といえば、生物が神経系を備えるようになってからのことであって、心と、感情の形成は”神経系と他の組織の相互作用に基礎を置く”、”神経系は、それのみによってではなく、それ以外の組織との連携を通して心を形成する”という本書の第二の核となる主張が語られてゆくのである。
おわりに
細かく説明しているときりがないのでこのへんで終わりにしておくが、ここまでの話でまだ本書の40ページ分を紹介したに過ぎない。個人的におもしろかったのは、生物学や細胞学の話を経て未来の話を展開し始める「医学、不死、そしてアルゴリズム」などの、文化や社会の行末を語る章だ。たとえば、トランスヒューマニストたちがよくいう人間の心を「コンピュータにアップロードする」などということは、身体と脳の双方が生身の人間が持っている心的経験のためには不可分であるとする立場のアントニオ・ダマシオ的にはありえない話であり、『トランスヒューマニストは、身体までアップロードしようとしているのだろうか?』と問いかけてみせる。
これについては、(トランスヒューマニストが今のままの心的経験を欲しているのだと仮定すると)単に身体と脳の統合された情報のやりとりごとアップロードしようとする=身体までアップロードしようとするんじゃないの? と思う。一方で、現在の我々の感情というのは「死や身体的な不愉快といったホメオスタシス」から生まれているのであって、そうした状況がなくなった状態では今と同じような感情は生じるはずないでしょ、というアントニオ・ダマシオ反論も最もなものであるように思う。擬似的な死や不快感を与えることは出来るだろうが、それは「もどき」であるというし(別に、もどきであってもいいじゃん、と個人的には思うが)。
余談。宇宙に存在する生命にある程度の普遍的な性向はありえるのか?
もうひとつ個人的におもしろかったのは、最近個人的に問題意識として持っている「宇宙に存在する生命にある程度の普遍的な性向はありえるのか?」に関連する部分である。アントニオ・ダマシオは銀河系のどこか別の惑星で生命が誕生したというシナリオを描き、その神秘の生物が持つ感情の経験は形式的には我々のものに似るだろうが、その素材は同一ではないので、まったく同じではないという。それはまったくその通りだろうが、だが、はたして生物の材料としての素材にそこまでの多様性はありえるのか? というのが僕の中に大きな疑問としてずっと残り続けている。
炭素を基礎とした炭素生命が地球で繁栄しているのは決して偶然ではない。それが非常に他元素と結合しやすいからで、二酸化炭素が宇宙に普遍的に存在する水に溶け、生物の体内の循環システムとして非常に利用しやすいからだ。決して宇宙にケイ素生物などがいないというつもりはまったくないが、宇宙の生成過程も、各惑星にどのような組成が多く、どのような気候が存在するのかもわかってきている。そうした情報を前提として考えると、「基本的な生物の素材」はある程度は決まっているのではないかという仮説は立てられる。仮に素材にある程度の同一性向があるのであれば、知性や文化といった部分についてもまた、類似性が立ち上がってくるのかもしれない。
これに関連したテーマとして、最近では、本書と同訳者の『地球外生命と人類の未来 ―人新世の宇宙生物学―』がおもしろかった。
- 作者: アダム・フランク,高橋洋
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- 発売日: 2019/01/25
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