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どうして人間はこんなにも多くの本を破壊するのか──『書物の破壊の世界史――シュメールの粘土板からデジタル時代まで』

書物の破壊の世界史――シュメールの粘土板からデジタル時代まで

書物の破壊の世界史――シュメールの粘土板からデジタル時代まで

  • 作者: フェルナンド・バエス,八重樫克彦,八重樫由貴子
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2019/02/28
  • メディア: 単行本
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「書物」ではなく「書物の破壊」に注目し、その起源から現代までを700ページ超えの圧巻の物量で概観してみせる凄まじい一冊だ。書物の破壊といっても、災害での消失から、戦争での破壊、思想・心情に反する焚書、虫食いまで様々なわけだが、本書はその全てを対象とみせる。一度2004年に初版が刊行され、後に好評を受け新版が出ているのだが(邦訳の底本はこっち)、そこでは「フィクションの中の書物の破壊」について語る部分まで挿入されており、やりすぎなぐらいにやってくれている。

 書物は記憶を神聖化・永続化させる手段である。それだけに今一度、社会の重要な文化遺産の一部として捉え直す必要がある。文化は各民族の最も代表的な遺産であるという前提で物事を理解しなければならない。文化遺産そのものが伝達可能な所有物なのだという思いを人々に抱かせるだけに、領土内の帰属意識、民族アイデンティティを高める性質がある。図書館、古文書館、博物館は、まさにその文化遺産であり、各民族はそれらを記憶の殿堂として受け入れている。
 だからこそ私は、書物は単なる物質としてではなく、個人や共同体のアイデンティティ、あるいは記憶として破壊されていると考えるのだ。

さまざまな「書物の破壊」の世界史を扱っているとはいえ、その記述の多くは意識的に人間が本を破壊したケースに寄っている(その次が戦争や災害による破壊か)。中世カトリック教会の異端審問における書物の破壊、ナチスによる、ナチズムの思想に合わないとされた数々の本の焚書、毛沢東の行動など、多くの組織や個人が「文化への攻撃」として書物を破壊している歴史が、本書では多く紹介されている。『書物を焼いたり図書館を空爆したりするのは、それらが敵対する側のシンボルだからだ』

古代ローマ人は、反逆罪を犯した者に対してダムナティオ・メモリアエ(記憶の破壊)と呼ばれる刑罰を科したと言うが、これは罪人が後代に名を残さぬよう名の残っている記録媒体が破壊されることを示している。古代の出来事ではあるが、現代でも「象徴としての書物の破壊」は行われており(9.11を国際コーラン焚書デーにしようという動きがあったり)、書物の破壊は、デジタル化が進む今過ぎ去ったものではなく現在も進行している歴史なのだということが、本書を読むとよくわかる。分厚くてけっこう高いけど、(3800円ぐらい)それだけの価値はきちんとある一冊だ。

構成とか

構成はひねったところもなく、古代オリエントからはじまって、東ローマ帝国の時代から19世紀まで、そして20世紀〜21世紀の話が時系列順に語られ、その合間に、書物の脆さと忘却と題して無関心による書物の破壊や、使用言語の変化がもたらす影響なども紹介されていく。先程に書いたフィクションにおける書物の破壊もそうした一章としてあり、主人公の騎士道小説が燃やされる『ドン・キホーテ』、レイ・ブラッドベリ『華氏四五一度』、さらにはSFとして『黙示録3174年』についでまで触れられているので、その目配せの広さには「すげえな」と感嘆するしかない。

ざっと内容を紹介する

近現代の歴史も興味深いが、普段触れることのない古代オリエントなどの古代の「書物の破壊」のケースが個人的には興味深い。紀元前2000年以上前の書物の破壊の状況なんかわかるんかね? と疑問に思うところだが、当時は粘土板などが用いられており、わかる面もある、といったところのようだ。たとえば、紀元前2400年頃の時代に属する王宮の内部では、文書庫の跡と何千枚もの粘土板文書が発見されており、破壊と火災後に建物が崩壊したことがわかっている。文書はきちんと主題ごとに分類されていたようで、征服した都市のリストや辞書のようなものもあったらしい。

続いて興味深いのは古代ギリシャだ。古代ギリシャ人による著作で現存しているのはほんの一部で、控えめに見積もっても75%は失われている。現在する古代ギリシャ最古の文書は紀元前340年前のパピルスで、ギリシャ神話の吟遊詩人オルペウスの詩に関する哲学論文だというが、初期の書物は古代エジプトから伝搬してきた技術によって紀元前9世紀時点ではすでにあった可能性もあるので、そうすると500年間の作品はすべて失われてしまったということになる。本書を読んでいて悲しくなってきてしまうのは、本が破壊されるだけならまだしも、本の内容たる”コンテンツ”そのものが失われてしまっているケースを多くみることだ。かつて確かにあったけれども、今はもう決して読むことができない本たちが、本書の中に詰め込まれているのである。

古代ギリシャの記述の中で興味深いのはプラトンも本を燃やそうとした男だということ。ライバル視していたデモクリトスの著作を集めて燃やそうとしたり、彼が提唱する真理に裏打ちされていないすべての著作を徹底的に否定していたことから、彼が本を燃やしていたことについては十分に根拠があることだとしている。

おわりに

さすがに古代ギリシャ時代ともなると本それ自体が残ってないので破壊の跡も文書として残っているところから拾い上げるぐらいしかないのだが、そこから中世に入り、さらには現代に入ると印刷技術の発展もあって書物の破壊のケースも飛躍的に増大していくことになる。日本でのケースもいくつか紹介されていて、たとえば応仁の乱では戦乱の中心だった京都の文書庫が破壊された桃華坊文庫の話など、第二次世界大戦の空襲で焼かれた(もしくは日本側が焼いた)本の話などなど、まさに「世界史」として各地のケースが網羅されている(もちろん、完全な網羅ではないけれども)。

書物を焼くのは無知で馬鹿な人間ばかりかといえばそんなことはない。むしろその価値に気づいているからこそ焼くのだろう。歴史的にも大規模な焚書を行ったヒトラーは1万6000冊以上の個人蔵書を有しており、古書にこだわる書物蒐集家であったという。なんでも、ヒトラーはエルンスト・シェルテルの『魔術──その歴史および理論と実践』というオカルト本に傾倒し、次の一節に線を引いていたという。『自分のなかに悪魔的な種を宿さぬ者は、けっして新たな世界を生み出すことはない。』とまあ、そんな感じで本書はこうした枝葉の部分や歴史的経緯までしっかりと取り込みながら、書物の破壊の世界史を豊穣な樹木として成立させてくれている。