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異世界からの”帰還後に”苦悩を抱き続ける子どもたちを描き出す、ファンタジィ三部作

不思議の国の少女たち (創元推理文庫)

不思議の国の少女たち (創元推理文庫)

「不思議の国」や「ナルニア国」のようなファンタジックな世界から”帰還した後”の少年少女たちが集まる全寮制の学校での物語を描き出すショーニン・マグワイア『不思議の国の少女たち』から始まる三部作が、先日刊行されたばかりの『砂糖の空から落ちてきた少女』でついに完結! この世界では、一部の子供たちは異世界で大冒険を成し遂げた後、さまざまな理由によって元の世界へと帰還する。そして、その時の経験を大人たちに語るが、まずもってその内容が正しく理解されることはない。

大人からすればそれは子供にありがちな誇大妄想、あるいは何らかの理由によって家出した時の、精神的トラウマによるショック症状にしか捉えられないからだ。そうした子供たちを救うために、本作の舞台となる学校は存在する『入学するかもしれない子どもたちにとって、その場に座ったまま、世界じゅうで──少なくともこの世界じゅうで──いちばん大切な人々から、自分の記憶を妄想と、体験したことを幻想と、人生を治りにくい病気のようなものと切り捨てられるのはつらすぎるだろうから。』

この全寮制の施設長であるエリノアは自分自身幾度も異世界へと行っている経験者で、大人たちへの対応もよく心得ている。両親には「妄想の一つです。時間をかければ治るかもしれません」といい、叔父や叔母には「これはあなたのせいではありません。こちらで解決できる可能性があります」といい、祖父母には「お手伝いさせてください。どうかお役に立たせてください」とそれぞれ違った形で語りかける。でも実際の子供には違った形の救済が必要だ。誰にも理解されていない、周囲から頭のおかしな子、いなくなる前の”あの子”に戻って欲しいと誰からも望まれている子供にたいして、「異世界での体験」を肯定してあげること。そして異世界ではない現実に対して気持ちを切り替えられるように、時間をかけて理解させてあげること。

 エリノア・ウェストは、自分には手に入らなかったものを子どもたちに与えて日々を送っている。いつの日か、その報酬としてみずからが属する世界へ戻ることができることを期待しながら。

施設の長であるエリノア・ウェスト自身がこのように”自らが属する世界へ戻る”、この現実世界ではなく、彼女自身が幾度も冒険をした異世界へと戻ることを強烈に欲していることがこの「異世界からの帰還者」問題の根深さを物語っている。

三作を軽めに紹介する。

『不思議の国の少女たち』は、異世界からの帰還者がいる──しかも、時に一度戻ってきた子どもたちの中からさらに異世界へと再帰還する子どもたちもいる──というこの特殊な世界観の説明と、学校で起こった謎の殺人事件を追うミステリィ的な構成をとっている。続く『トランクの中に行った双子』では、一作目の主要人物である双子の少女が、かつてどのような人生や異世界での生活をおくっていたのかといった、前日譚が綴られる。第三作目の『砂糖の空から落ちてきた少女』は時間軸を第一作目以後に戻し、”殺人事件”のその後の物語として、様々な異世界からの帰還者である子どもたちが、新たな異世界への冒険の旅に出ることになる。

トランクの中に行った双子 (創元推理文庫)

トランクの中に行った双子 (創元推理文庫)

第二部はまるっと前日譚で外伝ではあるものの、そこで語られていくのは「現実世界では親や周囲から「かくあるべき」という役割を押し付けられていた少女たちが、迷い込んでしまった異世界では本当の自分を表現することができた」という解放の物語であり、テーマは三部作を通じて一貫している。特にこの巻は、双子の少女として、片方は女の子らしく、片方は男の子らしく育てられたけれどもふたりとも内心ではそのことに深い締め付けとお互いへの憎しみとも愛情ともつかない複雑な感情を抱いていて──という感情の衝突が美しく描かれていく作品で、とても好きな一冊である。

ざっくりと世界観の魅力を紹介する

異世界への冒険を体験した子どもたちは二種類に分けられる。異世界こそが自分の適正を発揮できる場所、”故郷”であって、私はそこに戻らないといけないのだと考える人たち。もうひとつは、決して帰りたくないと願う人たちだ。本作の中心的な舞台となるのは、エリノアが管理している前者の子供たちが集まる施設である。

この施設には様々な異世界からの帰還者が集まっている。たとえば、第一作目と第三作目で中心的な働きをするケイドというトランスジェンダーの男の子(男の子はこの施設に数人しかいない)は、アリスの鏡の国のような妖精界のひとつに転がり込んで帰ってきた。スミという女の子は、彼らのいうところの”高ナンセンス界”に主観的時間にして10年近く暮らしていたせいで、説明し難い非常に独特な喋り方をする。

 ナンシーがテーブルに近づいてから動きもしゃべりもしなかったジルが、ナンシーの皿に視線を向けて言った。「あんまり食べないのね。ダイエット中?」
「いいえ、そういうわけじゃないの。ただ……」ナンシーはためらってから、頭をふって言った。「移動とかストレスとか、いろんなことで胃の調子がよくないから」
「あたしはストレス? それともいろんなことのほう?」スミが問いかけ、ジャムでべとべとの肉をひと切れとりあげて口にほうりこんだ。かみながら続ける。「両方ってこともあるかもね。あたしって融通がきくし」

この施設の、異世界からの帰還者たちは世界の方向性を大きく4つにわけて分類しているのがおもしろい。ナンセンス、ロジック、邪悪さ(ウィキッドネス)、高潔さ(ヴァーチュー)。たとえば不思議の国のアリスのような理屈の通らない世界は高ナンセンス。逆に理屈、規則が適用されている世界ならば高ロジックとなり、そこにウィキッドネスかヴァーチューが土台に組み込まれている。無論世界はそれだけで表せるほど単純ではなく、高詩韻(ライム)に高直線性(リニアティ)など無数の評価軸が存在するようである。第三作目では、ナンセンスの世界(お菓子の国)に高ロジック寄りの適正を持つ子どもたちが入り込むことで、しっちゃかめっちゃかな冒険が巻き起こる。

このような独自の分類・世界の方向性に加えて、旅立った世界の傾向ごとに、みな独自の習慣や価値観を身に着けて返ってくるので、それが個々人の大きな個性となっているのもこの設定のおもしろいところ。たとえばナンシーは死の世界にいて、死に対する独特の価値観、畏敬を覚え、動かずにすごす習慣ができた一方、スミは高ナンセンスでいたことで決して止まらないことを覚えた──といった感じで。そのため、別々の世界にいった子どもたちが集まって会話するシーンは、まるでいろんなファンタジー作品のキャラクタたちが一気に混交したような、カオスなおもしろさがある。

おわりに

僕がこの本で素晴らしいと思うのは「行って、帰ってきた子たちの物語」の部分。というのも、子供たちはランダムで異世界への扉を見つけるわけではなく、みな、それぞれ自分の心にあった、誇れるような世界へと旅立っていく。だからこそ彼女たちのように、異世界こそが自分が自由になることのできる、本当の故郷なのだと願い、戻ろうとすることもある。彼女らの姿は、そのままかつて夢みたファンタジィへと恋い焦がれた大人になってしまった自分と繋がるところがある。優しいのは、異世界を決して現実逃避の場所として表現せず、我々のいるこの現実は、最終的に帰還するべき場所、ただ一つの生きるべき世界なのだと描き出しているわけではないところだ。

「スミは心にナンセンスを持っていました。だからそのことを隠し通すのではなく、誇れるような世界への扉がひらいたのです。それがあの子の本当の物語よ。自由になれる場所を見つけたこと。それはあなたがたの物語でもあるのよ。ひとり残らずね。」エレノアは顎をあげた。その瞳は澄みきっていた

戻れる可能性などほとんどないのに、それを恋い焦がれることを否定しないのは本当に優しいことなのだろうか? など、一作目を読んでいた時の疑問は、三部作を通して読んでみると次第に解消していく。三部作で、実際にここである程度まとまってはいるものの、実は好評を受けて第四作は2019年の1月に刊行され、第五作の刊行も(2020年に)決まっているらしい。邦訳もこのまま出してくれるといいなあ。

砂糖の空から落ちてきた少女 (創元推理文庫)

砂糖の空から落ちてきた少女 (創元推理文庫)