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欠陥まみれのGDP──『幻想の経済成長』

幻想の経済成長

幻想の経済成長

  • 作者: デイヴィッドピリング,David Pilling,仲達志
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2019/03/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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一般的に経済成長はいいものだとされる。経済成長の計測については国内総生産、GDPの値に基づいて決められる。それが伸びていれば皆の生活は豊かになるし、伸びていなければウーン、いまいちだなということになるわけで、非常にわかりやすいといえばわかりやすいからここまで使われている。でも、その「成長」の判断に使われているGDPって欠陥まみれじゃね? つまるところそのGDPによってたつ「経済成長」を盲信する意味なんてなくね? と問題提起を呼び起こす一冊である。

実際問題GDPは正しい経済の実態を表しているものではない(とはいえ、そんなことはどのような手段を用いてであれ不可能だ)。金銭のやりとりが発生しない取引はまったく計測できないし(たとえばあらゆるボランティア活動、経済取引を伴わない家事労働など)、人間の活動の大半が貨幣経済の外で起こっている貧困国では、既存のGDPの計測手法ではその国の経済の様子を一切把握することができない。

 成長は製造業時代の申し子であり、GDPは主として物的生産を測定することを目的に作られた。それゆえ、現代のサービス経済を理解するには不向きで、これは保険や造園といったサービス業が支配的な富裕国では重大な欠陥と言わざるを得ない。GDPは煉瓦、棒鋼、自転車といった「(物理的に)足の上に落とせるモノ」の計算はかなりうまくやってのける。その一方で、散髪、精神分析療法、音楽のダウンロードといった対象に同じことを試しても、きわめてあいまいな結果しかえられない。

歪みのある経済成長

経済成長はその構造上、より大量の生産を求めるが、それは大量の消費を求めることでもある。だが、我々は何かこれ以上の消費したいと思っているのだろうか? 無限に欲望は湧いてくるはずだ、とためらいもなく言い切れる人もいるだろうが、僕なんかはそこまで消費したい欲求はないというか、もう周りは情報で溢れすぎ、消費しきれなくなっている。欲しいものもあんまりない。『人間にはモノに対する際限なき欲望があるというのは近代経済学の基本前提でもある。それでも、私たちは心の奥底で、そうした行動を続けるのは狂気の沙汰だということにも気づいているのだ。』

成長の前提となっている大量の生産、そして消費が無理なのだとしたらこの本は経済成長なんてもうやめろと言っている本なのかといえばそんなことはない。現在の「経済成長」の考え方=そもそものGDPに問題があるのだから、これまでは見えてこなかった部分を「経済の実態」としてより正確に計測できるようにして、ゴールを治安の安全や平均寿命やらを総括した幸福度に置くのかどうかはともかく、より実態に即した真の意味での目標を前提とした成長を志していきましょうや、という本である。

著者は『日本-喪失と再起の物語』で見事な日本論を語ったデイヴィッド ピリング。彼は2000年代半ばに日本でフィナンシャル・タイムズで記者としての日々を過ごしたが、当時の日本経済はGDP的には完全に死んでいて、経済学の目を通すと日本は悲惨な失敗例に他ならなかった。だが、国民の大半の生活水準は上昇しており物価は下落、犯罪率は低く薬物乱用も少なく食事や消費財の品質は高い、と〈GDPに現れない側面〉では裕福な国であったという。『経済学は、世界の姿を歪めて伝えることがある。人間にとって大切なこと──清浄な大気や治安の良い街、それに安定した仕事や健全な心──のあまりにも多くが、その視野に入っていないのだ。』

実際問題当時の日本が豊かだったか(それは今もどうなのか)というのは人によって様々な意見があろうが、ここで重要なのは「GDPには金銭的なやりとりが含まれるものしか計測していない」ので「大気の汚染度や治安や寿命、森林資源などの自然を含めた相対的な〈資産〉の概念を含む、包括的な実態の経済活動とは程遠い」からGDPの成長率だけで経済が成功している・失敗していると判断するのは変だよね、ということである。そこに関しては、多くの人は納得してくれると思う。

改良版GDP模索の道

といったところで、本書ではいくつかの具体的なGDPの欠陥について語った後(家事労働はGDPに含まれず、インターネットで数々のWebサービスやアプリが充実すると多くの人間の金銭の拝受は消えるからGDPは減っていく──が国民の利便性は増している。富めるものがますます富む資本主義の構造のせいで、経済成長が数字として現れていても、ほとんどの人の賃金と雇用に関連しなくなっているなど)GDPの改良版というか、いくつかの別の経済計測のやり方が紹介されていくことになる。

たとえば、犯罪レベルが低ければ警察力は必要とならないから、それはGDPには現れない。だが、混乱が高まれば平和維持のために大きな警察力が必要とされ、GDPに現れ、それは「経済成長」というプラスの形で処理されてしまうが、実際には成長しているわけではなく社会に無駄なコストがかかっているだけである。だから、そうした本来不要なはずの費用は計算に含まれるべきではない(経済成長とは関係のない要素だ)、というように、外部性に配慮したグリーンGDPと呼ばれるものがある。

鉄鋼工場が大気や自然を汚染しながらものすごい勢いで鉄鋼やプラスチックを生産したとしよう。表向き現れるのは生産したぶんの経済活動のみで、たしかにそこだけみると凄い成長がみえるだろうが、実際には地球資源を大いに毀損しており周囲の人々の健康状態の悪化や浄化処理費用を捻出するための税金といったコストがかかっている。それらの処理費用もすべてGDPと現れ、経済成長としてプラスに計上されてしまう。こうした外部不経済を我々が歓迎する「成長」ではなく、コストとして適切に計上することで、たしかに経済は実態により近づくだろう。

おわりに

『「経済成長」の一部が、人々の生活を悲惨なものにしたり、彼らを早死にさせたりしているなら、それは本当に「成長」の名に値するだろうか?』本書では他にもアマルティア・センらが開発した、所得、平均余命、教育といった複数の指標からなる人間開発指数(HDI)、世界平和度指数(GPI)など無数の指標が語られていくが、それらが「GDPに取って代わるべきだ」という話ではなく、欠陥のあるGDPを補完し、よりよい形で運用していくのがよいのだろう。「経済成長」というひどく抽象的な言葉を盲信しないよう、常に懐疑的でいるために大いに役に立ってくれる一冊だ。