基本読書

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偶然によって彩られた混沌(幻想/SF/刑事/ロード/能力者バトル/登山……etc)小説──『偶然の聖地』

偶然の聖地

偶然の聖地

宮内悠介さんが雑誌『IN POCKET』にて数年に渡って連載していた長篇小説である。怜威という令和の時代にふさわしい名前の人物が、遠い血縁関係にあるニルファムという女性とコンタクトをとるため、イシュクトなる地図にも載っていないし座標もわからないし眉唾な伝説ばかりが残る謎の山へと向かうことになる──という開幕の一種のロードノベルであるともいえるが、その実態は、旅に私小説的な面とSFとメタ・フィクションが合わさった、「偶然の小説」とでもいうようなものである。

いくつか変なところがある

いくつか変なところのある小説だが、ぱっと読み始めて変なのは大量に挟まれる小説への注である。一般的にあまりnot翻訳小説に注はつかないし、通常読んでいてはわからないものに補足説明がついていることが本来的な役割だが、本書の場合はわりと私的なエッセイのような内容が付されている。たとえば、物語の冒頭、怜威がイシュクトへの長い旅に出る際に、『かくして、一九歳だったわたしの長い夏は幕を開けたのだった。』とそれっぽく締めるのだが、そこには次のような脚注がついている。

【わたしの長い夏】本書は二〇一四年の十一月から二〇一八年の八月にかけていまはなき『IN POCKET』誌で連載された。一度の原稿が五、六枚と、長い連載になるということがわかっていたので、自然に出てきたのがこのフレーズ。何を書いていたか忘れても大丈夫な話作りを目指し(円城塔さんも何かで同じようなことを発言しておられた)、そのつど僕が考えていることや、体験したこと、読んだものなどがそのまま地層のように出現する。

脚注というか、描写に関連した「ここは自分の実体験」とか、「これは自分の子供時代の思い出から引っ張ってきていて〜」といった創作裏話的なアレヤコレヤがせっせと書かれているのである。もちろんそれを「本物の注、つまりはフィクションに属さないリアル」と捉えてもよいし、あくまでもこの注まで含めて小説として読んでもいいのだろう。もともとこの連載は小説とエッセイの合間のようなもの的なオーダを受けて開始したようで、たしかに読んでいるとエッセイを読んでいるんだか小説を読んでいるんだかわからない、というよりかは読んでいるものがフィクションの領域に属しているのかノンフィクションの領域に属しているのかよくわからなくなってくる。

で、怜威の旅が始まるのだ……と思って続きを読み始めると、かつてイシュクト山と遭遇したことがあるというティトという名の人物の昔話が始まり、その後は「旅春」と呼ばれる世界のバグについての話が唐突に続くことになる。いわく、旅春とは世界中の人間が相互作用的に同時に罹患する認識の病である。世界がおかしくなっているのか人間の認識がおかしくなっているのかよくわからんが、とにかくこれが起こると世界になんだかよくわからないことが起こる。夏に雪が降ったりプランクトンが大量に死んだり成功しないはずの革命が成功したりワームホール的なあれが生まれたり。

そんな摩訶不思議なことが起こり続ける世界は困るから、それを直す「世界医」と呼ばれる医者が存在する。彼らは世界のバグといわれるそれを、プログラマ的に直す。そこで用いられるのは、因果が時間に従うのではなく時間が因果に従うだとかの理屈のオブジェクト時間という考え方だったりするのだが、基本的には現実に存在するプログラム的なことをやっている。時間を止めて、コードのおかしなところを見つけたら、そこがうまく動くように改修して、自分たちの改修がうまくいっているか実行して確かめてみる──といったように。テストコードなどの概念はないようである。

旅春の効果か、たとえば怜威がわずかな手がかりを得て南アジアへと飛んだ後、鍵のかかった怜威の部屋を父親の勇一が開けるとそこにはなぜかイシュクト山が現れている。「ちょっと待てば、ここから直接行けたんじゃねえか」と言いながら一回締めて開け直すと、今度はそこにオリエンタルな民族衣装に身を包んだミイラ化した死体が転がっている。一体全体どういうことか。もちろんそんなことはわからないので警察を呼び、呼ばれた二人の警察らは紆余曲折あって事情を聞きに怜威を追って南アジアへと飛ぶことになり──と無数の人々がイシュクト山に向けて交錯していく。

偶然の小説

長期間に渡って短い枚数ごとに連載されていたからか、読んでいて多彩な風景や思考の流れが目の前に立ち上がってくる。それは怜威らが移動していることも関係しているのだが、宇宙エレベータを弦のように捉えて演奏する巨人の話あり、ハンターのような能力バトル物小説を読んでいるかのような世界医たちの話あり(殺し屋の世界医とかいるし、フィデル・カストロも世界医であるという。キャラ付け濃すぎぃ!)。

ソフトウェア自身がソフトウェア自身をデバッグ・改変しながら動的にバグとセキュリティ・ホールを潰し続ける話あり、突然クトゥルフが出現するシーンあり──と、とにかく数ページごとに別の小説をつまみ読みしているかのような感覚が生まれる。

明確な座標を持たない「偶然の聖地」に辿り着こうとさまよい続ける登場人物たちの有様を描き、宮内さんのその時々の考えやかつての経験がスナップショット的に集められた本作は、偶然の集積によって生み出される「偶然の小説」のように思えるのである。もっとも、(ほぼ)すべての小説は偶然の連続によって書かれるという点においてはすべからく小説というのはそういうものなのかもしれないが。

しかも、旅春とかいう設定があるならなんでもありなんでしょ? どうやってこの混沌とした状況から締めるんかな、と訝しげに読んでいたら、物語は第二部から、怜威の部屋で見つかった死体、世界医たち、イシュクト山、刑事たち──そのすべてが最初から計算尽くでござい! とでもいわんばかりに綺麗に繋がり始めるのだ。

おわりに

その混沌から一筋の理屈を手繰り寄せるような美しさと強引さは感動もの。明確な目的地を決めずに旅にでるような、偶然との出会いがここにはある──というとあまりにも締めとして綺麗すぎるかもしれないが、でもまあそんな感じの小説である。