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読者に見事な魔法をかけてくれる、マジック&ロボットSF──『魔法を召し上がれ』

魔法を召し上がれ

魔法を召し上がれ

瀬名秀明さんによるマジック&ロボットな近未来SF小説である。僕は装丁が気に入ったのとけっこうなボリュームがあったのでそのへんの期待感から手にとったのだけれども、たいへんに素晴らしい傑作。冒頭、レストラン《ハーパーズ》で料理が出る前のお客にマジックを披露しているマジシャンの青年ヒカルが、最初の大失態をしでかすまでのシークエンスは特に素晴らしく、この世界に集中力を根こそぎ持っていかれてしまい、降りるはずだった駅を過ぎてしまったぐらいだ。

優れたマジシャンは観客の注意を引きつけ、自在にコントロールすることで驚きを演出するが、本書を読んでいる時の感覚はまさにそれである。小説を読んでいて降りる駅で降りられない経験なんて僕はほとんどしたことがない(2,3回ぐらいだと思う)。それも、降りるはずだった駅をだいぶ過ぎた後、一連のシークエンスを読み終えるまでそのことに気づかなかったのだ。その間僕の集中力と心は完全にこの世界に持っていかれていたし、そのことに気づきもしなかった。その後も瀬名秀明によって、500ページを超える分厚い本書の全篇にわたり、こちらの集中力は自在にコントロールされ続けることになる。まずそのことそれ自体が一つの魔法といえるだろう。

 ぼくはこれから魔法についての話をしようと思う。本当の魔法とは何なのだろうか。ぼくは高校を卒業してからマジシャンを志した。こうしてレストランでテーブルホッピングの仕事にも就けるようになった。料理が運ばれてくるまでの五分間で、小さな魔法を見せるのが仕事だ。
 でもレストランで魔法を見せるのはぼくだけじゃない。友成さんの調理する七面鳥ローストの深い味わいもきっと魔法なら、夏祭りで混雑した店内を捌いてゆく一井マネージャーの手際のよさも魔法であるし、鮮やかな身のこなしでフロアを擦り抜けてゆく美雪さんのステップもやはり魔法といえるはずだ。
 でも魔法はそれだけじゃない。魔法とは、それまで見たこともないものだから魔法なのだ。そして同時に、この世界に満ち溢れているから魔法なのだとも思う。この世界にそれがあること、本当にここにあるのだということ、それ自体が真の奇跡なんじゃないか。
 だからぼくは自分が消える前に、魔法についての話をしよう。

ざっと紹介する

本作の舞台となっているのロボット、AR、自動翻訳技術などがより進展した近未来、語り手であるヒカルは、先に書いたようにレストラン《ハーパーズ》で料理が出てくる前のお客さんに、マジックを提供するお仕事についている。物語の冒頭は、そんな彼がお客さんに向かって実際にマジックを披露する描写から始まるのだが、それがまず実に見事だ。耳の後ろから、鼻の下から、次々とコインを取り出し驚かしてみせ、赤くて硬いビリヤードボールを手から手へと移動させ、時に赤から白へと移動させ、みかんほどの大きさに変えてしまい──と様々なおもてなしをみせる。

そうした描写を、「実際に見事なマジックをみせました」ですませるのではなく、実際に再現できるかのように細かく一手順一手順描いてくれ、しかもそれは、一切の視覚を伴わない文字だけの描写であるにもかかわらず、実際に目の前でそのマジックが行われているかのような躍動感に満ちあふれている。本書ではこの冒頭以外でも幾度もマジックのシーンが描写されるが、そのどれもが違ったテクニックと演出が凝らされており、読み終えてこの記事を書いている今でも情景が蘇ってくるようだ。

大きな失態

今でこそ《ハーパーズ》で充実した日々を送っているヒカルだが、彼にはかつて美波という仲の良かった女性を、目の前で亡くすというつらい過去があった。物語は、そんなヒカルの現在の姿を綴りながら、同時にかつて彼の人生に何があったのか、なぜ美波は失われなければいけなかったのかが描かれてゆくわけだが、まず最初に圧巻なのはヒカルの物語が始まってから最初の大きな失態についてである。

いつものようにヒカルが《ハーパーズ》で接客をしていると、ある時ジェフとルイーズという二人の観光客がやってきて、料理についての雑談をすませた後、マジックを披露する流れになる。披露するのはシンプルなカード当てマジックで、よくあるものだ。ひとり(ルイーズ)にカードを選んで貰い、そのカードを後ろを向いていたもうひとり(ジェフ)に当ててもらう。どうやってかといえば、言葉巧みに視線を誘導し、ジェフにしか見えないように選ばれたカードを自分(ヒカル)のおでこにくっつけておくのだ。そうすれば簡単にジェフはルイーズが選んだカードを当てることができる。

だが、それが苦もなく「簡単」にできるのは目の見える人間だけだ。目が見えない人間にはおでこのカードを見ることも出来ないし、当然ながら言い当てることもできない。『それはぼくがレストランマジシャンになって初めて体験した、本当に信じがたいほどの失態だった。』そのうえジェフは同じくマジシャンで、少しその手の動きを見ただけでも凄腕であることがわかるような人物だった。ジェフは決してヒカルを非難せず、それどころかそうなるまえに止められなかったことを謝ってくれ、きみには才能と勇気があると奮い立たせてくれる、素晴らしく高潔な人間だ。

だがその高潔さがまた、まだ若く未熟な青年であるヒカルに大きなダメージを与えるのだろう。ヒカルはどうしてもそのままにすることができず、一週間後に再度、ジェフを愉しませることを約束することになる。

エンターテイメントとは

ロボット出てこないじゃん? と思うかもしれないが、この時点で全体の10%ほど。上記のシークエンスがあまりにも素晴らしく紹介の重点がよってしまった。で、一週間後の来訪時にこのジェフが少年でも少女でもない人型のロボットである「ミチル」を連れてきて、その後新米マジシャンとロボットの奇妙な同棲生活がはじまるのであった──という感じでヒカルの過去の事件と現在が交錯していくことになる。

ミチルはヒカルと暮らすうちに、自身もマジックを始め、二人はお互いに練習を繰り返してその技術を高めあっていくわけだけれども、それはロボットに本当の意味でのエンターテイメントを提供することはできるのか、本当の人間らしさをマジックの技術に籠めるためにはどうしたらいいのか、本当の魔法とは何なのか──など、無数の問いかけに繋がっていく。徹頭徹尾マジックの話ではあるが、同時に人の注意をひきつけ、コントロールする「エンターテイメント」の本質についての話でもある。

 エンターテイメントとは何だろうか? ぼくは以前にドクの遺したたくさんのマジック教本のなかで、こんな記述を見つけたことがある。
 エンターテイメントの定義とは、「意識的に、人の心を別の世界に誘うもの」であると。
 エンターテイメントであると思えることを端的に定義すれば、それは「そこに気持ちを集中させられる」ということなのだと。
 ぼくはミチルと過ごしてもう一度この本を開いたとき、ここに書かれている定義は人間であろうとロボットであろうと関係ない、ぼくたちのマジックの日常概念をひっくり返すような論理的な定義だと気づいたのだ。

この部分を読んだ時、「僕はまさにこの本に気持ちを集中させられたよ!」と思わず喝采をあげてしまった。

おわりに

著者の別作品『デカルトの密室』などと登場人物が一部共通している(もちろん、読んでなくてもまったくもんだいない)。本書が極上の魔法であるだけではなく、世界の至るとところに魔法が溢れていると実感させてくれる一冊だ。ブラボー!