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誰の記憶にも残ることができない女──『ホープは突然現れる』

ホープは突然現れる (角川文庫)

ホープは突然現れる (角川文庫)

死んだ直後に自分の人生をやり直す、いわゆるループ物の新基軸を切り開いた『ハリー・オーガスト、15回目の人生』。他者にふれることでその意識をのっとり、宿主から宿主へ、何百年も生き続ける”ゴースト”たちを描き出した『接触』のクレア・ノース最新作は誰の記憶にも残らない不可思議な特性を持った一人の女の物語だ。

女の名はホープ・アーデン。16歳の頃から徐々に、父親が彼女を学校に送っていくのを忘れ、母親は彼女の分の食事を出し忘れ、といったふうに周囲の人間から忘れ去られるようになり、ある時まったく記憶されない状態へと移行してしまう。当たり前だが両親から忘れ去られてしまったら、家にいることすらできず、誰とも長期的な信頼関係を築き上げることもできず、ただこの世界の人間社会から”浮いて”生きていくことを強いられることになる。その人生は、とてつもなく深い孤独に沈んでいる。

『記憶が薄れるとともに、私の一部も薄れた。友達とはしゃぎ、家族とほほ笑み、恋人といちゃつき、上司に腹を立て、同僚と達成感に酔うホープ・アーデンが何者だったにせよ彼女は存在しなくなり、私はすべてをはぎ取られたあとに残るもののはかなさに気づくたびにうろたえた。』彼女を見て、喋ったものはみな彼女のことを忘れてしまう。だが、それもさすがに書いたものまでには作用しない。本書は、彼女が「忘れないで」という意志を込めて書いた、誰かに宛てた物語のスタイルで綴られていく。『書き記された文字という形でしか私が記憶されないならば、そしてこの文章を私が消えたあとも残るものにするならば、つまらないことを書くわけにはいかない』

本書は、そんな彼女がどのような人生をおくってきた・おくっていくのか。また、彼女がその人生の途中であったパーフェクションなる、世界を破壊的に変えてしまいかねない特殊な組織との戦いの物語である。この本、750ページ近くもあって一冊の長編小説としては分厚い部類なのだが、この物語の内容を考えればそれも当然だ。なにしろ、彼女は会う人会う人に忘れ去られてしまうので、会うたびに同じことを繰り返し説明して、そのせいで分量が飛躍的にのびていく。また、同じことを何度も何度も繰り返すのを実際に小説として描写するのは、彼女が”読者”相手に自分自身の孤独を、自分の感情を刻みつけようとしているからでもあるようにも感じられる。

これは彼女の人生と戦いの物語だけれども、それは同時に孤独へと深く落ちていく彼女と、彼女をどうしても覚えておきたいと願い、あらゆる手段を講じるも覚えられず「忘れてしまったことだけを覚えている」空白を抱えた人間たちの話で、狂おしい関係性の物語として傑作なんだよね。いや、正直読んでいる最中は「何度も何度も自己紹介してんじゃねーよ!! 面倒だわ!」とだるさを感じているんだけれども、読み終えてみるとそのだるささえも刻みつけられた彼女の感情として残るのだ。

ざっと紹介する。

さて、前置き部分が長くなってしまったが、内容を具体的に紹介してみよう。主人公は先に書いたようにホープ・アーデンを名乗る女性だが、この世界にはパーフェクションと呼ばれる特殊なサービスが存在する。このサービスは、パーフェクトなあなたを創る、パーフェクションは現実、パーフェクションは現在を合言葉に、使用者の生活にたいして細かな指示やチェックを行い、「完璧」に近づけてくれるという。

食生活を健康的なものにかえろ、運動をしろ、運動が足りない、銀行口座の連携をすれば金の使いすぎだ、位置情報を連携すれば職場にいすぎだ、などとあらゆる行動情報を分析して、やたらと口を出してくる。そうしたノルマをサービス利用者がこなしていくとポイントが徐々にたまっていき、一定数貯まるとパーフェクションに熱心な会員だけが受けられる特別な”体験”にアクセスできるようになる。ホープはある時、一方的な友人と言える女性をパーフェクションを一因とすると思われる自殺によって失い、パーフェクションのことを調べ、その恐ろしさに気づいていくことになる。

パーフェクションのいったいなにが危険なのか? たとえば、パーフェクトと一言でいっても、本来人それぞれの「完璧」の定義は違うはずだが、パーフェクションに心酔しきった人々は、パーフェクションが定義するところの「完璧」に沿うように行動し、著しい画一性を発揮することになる。パーフェクションに評価される人間はパーフェクションに評価されない人間──ブス、デブ、ジャンクフードを平気で食べるクズ──を平気で見下し始め、社会の分断は大きくなっていく。やばさの極めつけはトリートメントと呼ばれる脳手術によって、自己肯定感を高め「私は成功する」という感覚を無条件でもたらす技術で、まあそんなもんはどう考えたってやばいよね。

関係性の物語

ホープは当然だが普通の仕事にはつけないので、もっぱら泥棒として生計を立てている。で、ある時盗品をさばくために使っていたダークウェブ上での取引相手からパーフェクション打倒を持ちかけられ──といった形でいよいよ物語が大きく動き出していく。その過程で彼女は様々な人と出会うわけだけど──先に書いたようにその関係性の物語としての側面が凄いんだなあ。世界的な泥棒である彼女のことを執念深く追う、銭形警部感も感じられるインターポールの堅物刑事、ルーカス・エヴァード。

ホープのことを誰よりも自由だと羨み、周りに人がいないことは孤独ではないと語り、ただひたすらにホープの特性を科学的に分析しようと試みるバイロンという女性。トリートメントの開発者にして、類まれなる洞察力と理解力で「一瞬で忘れてしまう女性」を瞬時に把握・認識し、肯定的に捉えてくれるフィリパ。

みなホープのことを狂おしいほどに追い求めるが、絶対に彼女のことを記憶することはできず、ただ「不在性」が彼らの中に残る。『ときどき不安になるんです……そんな女は本当はいないんじゃないかって。存在しないんじゃないかって。筋の通らない話ですよ。こっちには証拠が揃ってる。手口もわかってる。DNAも指紋も顔写真も、起訴するのに必要な証拠は揃っているんです。だが、どこへ行っても、彼女がどんな罪を犯しても、誰もそんな女は覚えていないという』でも、空白がぽっかりと心の中にあくのなら、それは存在していることと同じではないだろうか。みな彼女のことを忘れてしまうが、でも常にその存在を意識し、雑踏の中に彼女の姿を探すのだ。

おわりに

ホープの力強い精神性、語りも魅力的で、『ヘイ、マカレナ! 私のすべてを出しきってやる』と自分を奮い立たせたり、『世界のやつ、舐めやがって、私をこんな目に遭わせて反撃しないと思ったら、ひっくり返っておとなしく死ぬと思ったら大間違いだ。』と壮絶な喧嘩をうってみたりととにかく力強い人物だ。そんな彼女の人生の旅がいったいどこへ流れ着いていくのか……750ページに渡る長大な旅を、ぜひ刻み込んでもらいたい。