- 作者:エドワード・ケアリー
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2019/11/29
- メディア: 単行本
正直、〈アイアマンガー三部作〉という僕の人生の中でも特別な位置を占める傑作を読んだ後に、エドワード・ケアリーが次の題材として選んだのがマリー・タッソーを主人公とした歴史的な小説であると知った時は、少し不安があったものだ。勿論ケアリーが扱うにふさわしい題材ではあるけれども、同時に氏の今の想像力というか奔放な世界観が現実に縛り付けられてしまうのではないか──というのが直接的な理由だったけれども、いやはや、読んでみればそれが杞憂であったことがすぐにわかる。
というのも、歴史上の人物を主人公にし出来事や時系列も基本的にすべて歴史通りなのに、訳者あとがきの中で引用されている著者の次の言葉通り((アイアマンガーを指して)『あの作品が作家としての私を元の状態に引き戻してくれました。フィクションを書く楽しさを思い出させてくれた。作家なら好きなだけ行きたいところに行けばいい、ということを思い出させてくれたんです。』)に⇛、歴史というレールの上を走りながら、存分に行きたいところへ行っている、どこまでも自由な作品なのである。
抑制された筆致ながらも、心の底から感情が揺さぶられるような傑作で、特に終盤の情景には唖然とする他ない。これほどまでに瑞々しく、荒れ狂うような感情、世界の様相をそのまま伝えられるとは……とケアリーの作品を読むといつも思うが、今回もその力量はいかんなく発揮されている。ケアリーが『この世界は壊れている。ひびが入っている。』と書けば、読んでいるこちらも本当にこの世界は壊れている、と感じずにはいられないのだ。僕が小説を読む意味はこのような作品と出会うためであり、この『おちび』には、小説が小説であることの喜びが十全に詰め込まれている。
ざっとあらすじを紹介する。
基本的にはマリー・タッソーの幼少期から時系列順で彼女の人生を辿っていくことになる。当時のイギリスはまだとても貧しく、環境は厳しく、パリは汚らしい町だった。マリーは幼少期に父をなくし、クルティウス医師の元で家政婦をするうちに母を自殺でなくし、医師と共に移り住んだ未亡人の家では奴隷のように扱われ、次第に彼女が作った蝋人形が金を生み出していくにも関わらず、ろくな給金も支払われない。
本書の書名であるおちび、原題Littleは、未亡人の家で『「この子は小さな叫びだ。小さな不満だ。小さな侮蔑だ。いずれにしても、ちっちゃいぞ。そうだ、おちびがいいな。この子をおちびと名付けよう」』と言われたことからきている。つまりこれはおちびさんのおちびなのだが、マリーのパワーは決して小さなものではない。彼女は蝋人形に対する旺盛な創作欲と、確固とした自分の意志に衝き動かされた、強い人間だ。最初こそそうした強さは彼女の悲惨な境遇と生きていくための能力の欠如によって殻に覆われているが、激動のパリを生き抜いていくうちに、次第にボロボロと崩れていくことになる。『ようやく、わたしは目覚め始めてきたんだと思います』
激動のパリ
マリーが生きるこの時代はフランス革命期に重なっている。しかも、マリーはその状況に無関係などころか、王家の血筋を引くエリザベートに自分の技術を伝えるためにヴェルサイユ宮殿で一緒に暮らしていた時期があるなど関係が深かったために、最終的にマリーはそれを理由にして投獄され、死の淵まで行ってしまうのだが──。この幼少期におけるエリザベートとの友情を描き出すパートがまた素晴らしいんだよね。
二人は見た目がそっくりで幼い時に両親をなくしたという共通点を持っていて、臓器や骨格など、現実主義的なアプローチでの絵の描き方、構造の捉え方を教えるうちに二人は無二の親友になってゆく。エリザベートがマリーのことを「我がハート」と呼び、蝋で作ったハートを送る場面とか、めちゃくちゃ尊いんだよなあ……。
わたしが、王女さまを抱きしめてもかまいませんか、と尋ねると、そんなことは絶対に考えてはならない、と言われた。でも、わたしはとても嬉しくて、自分を抑えきれずにもう一度訊いた。王女さまはまたもや、だめよ、と言ったが、今度の声は弱々しかった。それでわたしはもう一度頼んでみようと思った。でも、今度は許可を求めなかった。わたしが両手を王女さまの体に回すと、彼女がわたしの肩に頭を預けた。そして匂い、深くて温もりのある匂い、小さくても完璧に成長したあの方の匂いがした。
商業主義と創作、汚いものと美しいもの、現実と理想のコンフリクト
マリーの人生を振り返ってみると、その際立った特徴はその徹底的に現実主義的な姿勢にある。ただ、目の前にある事象をそのまま解釈する。起こったことは起こったことであり、悲しむが、後悔をしない。生まれてしまったのだから生きなければいけないのだ、という一貫した姿勢がマリー・タッカーの人生をすっとつらぬいている。
恐らくそうした姿勢は類稀なる蝋人形作家にとっては必要不可欠のものなのだ。なぜなら、ある人物の蝋人形を作る、ということは、その人物のありのままを捉えるということだからだ。理想や思い込みを排除し、蝋人形として再現しなければならない。だが、同時にそれは人々の怒りを呼び起こすものだ。顔をあるがままに再現すれば、「私はもっと美しい」と自分の本当の姿を受け入れないものが現れる。
汚い、殺人者や犯罪者の蝋人形を作れば、もっと美しいもので蝋人形を作るべきだというものが現れる。創作意欲に従って作れば、もっと人を呼び寄せる、金になるものを作るべきだというものが、必ず現れる。マリー・タッカーも、フィリップ・クルティウスも、唯々諾々とそうした世間の意見に首肯できるほど物分りのいい手合ではないから、そこには必ずコンフリクトが起こる。汚いもの、悪いもの、現実を人を見ようとはしない。それを見るのは時につらいことだから。でもそれは確かにこの世界に存在しているし、それを描き出してこそ真に世界を表現することに繋がるのである。
「あなたは分け隔てをしないけど」未亡人が話していた。「顔ならなんだっていいわけじゃないのよ」
「でも、私はその顔にとても興味があるんです。どうしてもその顔を見てみたい。そこには新しいものがあるはずなんだ。これまで見たことのないようなものが」
「先生、どの顔を型取りするかはわたしに決めさせて」
「どうしても見たい! ピコーさん、一度だけです。この顔はどうしてもほしい」
「わたしたちが型取りするのは善良な人、美しい人、聡明な人よ」
「今回だけです」
おわりに
エドワード・ケアリーの作品なので、本書にもたくさんの挿絵が挟まれている。とても美しいとはいえないバランスの崩れた(いってみれば、リアルな人間の)顔がたくさん並んでいるが、でも同時にそれがとても愛おしいのだ。 huyukiitoichi.hatenadiary.jp