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今世紀最高のSF短篇集といっても過言ではない、テッド・チャン最新作──『息吹』

息吹

息吹

  • 作者:テッド・チャン
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2019/12/04
  • メディア: 単行本
ついにテッド・チャン最新短篇集『息吹』が刊行された! テッド・チャンは映画『メッセージ』の原作が含まれているSF短篇集『あなたの人生の物語』の著者として知られるが、その圧倒的な質の高さと反比例するかのように寡作で、これが17年ぶりの作品*1である。だが、それだけ待っただけのことはある圧巻の作品集だ。

現在までの29年のキャリアの中で出したのは短篇集二作のみなのだから、まさに寡作の王といってもいい貫禄ではあるが、(それだけの時間をかけたから、といっていいのかどうかはともかく)テッド・チャンが描き出す世界はとてつもなく緻密で、ありえないほど美しい。この短篇集も、SFを読む喜びに満ちていて、このような作品に出会うために小説を読んでいるのだ、と改めて実感させてくれる傑作揃いである。

テッド・チャンは、時にどこまでも具体的に新しく生まれたテクノロジーが社会を、人の意識、倫理観を変えたのかを描き出しつつ、時には童話のように抽象的に世界の本質をえぐり出してみせるので、この短篇集を読んでいて僕が感じたのはチャンの「自由さ」と「深さ」であった。また、『わたしたちは誰も聖人じゃない。でも、もっといい人間になろうとすることはできる。』というセリフに代表されるような思想や価値観が全篇共通していて、難しい判断を求められ失敗した人間に優しく寄り添ってくれるその作風は、多くの人にとって受け入れ/馴染みやすいものだろう。

文体は柔らかく研ぎ澄まされており、SFを読んだことがない人にも安心しておすすめできる。本書は全9篇から構成されている。では、以下でざっと紹介してみよう。

「商人と錬金術師の門」、「予期される未来」、「不安は自由のめまい」

最初の「商人と錬金術師の門」は、くぐることで20年前と20年後に移動することができる〈門〉を軸にしたタイムトラベルもの。詳しい説明がなされるわけではないが、物理学と矛盾しない形で成立するタイム・トラベルのアイデアが用いられていて、その理論上過去や未来を変えることはできないのだが、それでもなお未来を垣間み、過去を深く知ることの意義が幾人もの〈門〉利用者の物語と共に語られていく。

本書末尾の「作品ノート」の中で、テッド・ちゃんはこの作品について『個人的には、過去が変えられないことがかならずしも悲しみに直結しないようなタイムトラベルものが書いてみたかった。』と語っているが、本作を読むとその緻密さに驚くと同時に、テッド・チャンの人間への深い温かみを感じて泣きそうになるんだよね。

「未来や過去を知ったとしても変えることができない」ことが人にどのような影響を与えるか、というモチーフは、自由意志の意味や機能を問う他作品でも繰り返される。たとえば「予期される未来」では、ボタンを押す一秒前にライトが光る予言機が流行った結果、自由意志は幻想でしかないという認識が広がり、次いで無動無言症と呼ばれる自発的な行動を起こさなくなる症状が蔓延していく社会を描き出す。

並行世界の自分や誰かと対話をするための装置が生まれた結果、人々の倫理観や考え方が少しずつ変質していく社会を描き出す、本書書き下ろし短篇の「不安は自由のめまい」もこの中に入れていいだろう。こちらはそのアイディアの鮮明さもさることながら、無数の並行世界の自分が今の自分よりも立派な選択をとっているのだから、自分はまっとうな人間なのだと自分弁護するもの、無数の世界線の中では悪いことをする自分もいるのだから自分がしたっていいだろうと自己正当化するものなど無数の人々の在り方、倫理観を描き出していくその精度があまりに高い。

世界を探求してゆく「息吹」、「オムファロス」

続いて紹介するのは表題作「息吹」で、毎日空気がいっぱいになった肺を体の空っぽになった肺と取り替えることで生きる、我々の知る現実とはまったく異なる世界を生きる人々の物語。これは僕がこの10年で読んだSF短篇の中でも最上の一篇だ。

この世界の住民はみな、空気が抜けたら肺を吸気口にセットして、いっぱいになった肺をセットすることで寿命などもなくずっと生きていくことができる。給気口とは地下深くにある貯蔵槽に繋がっていて、そこから空気が供給されている。だが、ある時この安定した世界に一つの変化が訪れる。毎年元旦の正午には、触れ役が詩を暗唱するのだが、暗唱が終わる前に塔時計が午後一時を告げた(本来、同時に終わる)のである。そこに何らかの原因を感じ、憂慮したのが科学者であるこの物語の語り手だ。

語り手はとある仮説を胸に秘め、自分の頭を解剖する極限の実験に挑むことになる。まず後頭部および頭頂部を覆うプレートを外し、十数個の部品からなる脳を細かく検討していく。そこで行われるのは彼の仮説の検証なのだけれども、この描写の緻密さがまた素晴らしい。『一般的な仮説では、脳は頭の中心に位置する機関(この機関が実際の認知を司る)と、まわりを囲む一連の部品(記憶が保存される)に分割される。』

そうした検証を続けるうちに、彼は自分の意識がいったい何によって生み出されているのか、また彼らがずっと「生命の源」だと信じてきた空気が実際にはどのような働きをしているのか、塔時計が少しずつ過去の時点より早くなっているのはどのような理由から──を解き明かしていくことになる。我々の世界とまったく異なる抽象度の世界を描き出しながら、そこで行われていく世界の謎に対する探求とそれが明らかになった時の感動、失敗への恐怖が丁寧に描き出されていて、世界を発見することの喜びを深い部分から追体験することができる、紛れもない傑作である。

同じく世界のことわりを探求していく系の作品としては「オムファロス」も良い。こちらは「すべてがある地点にまっさらな状態で生まれた」という「最初に一度だけ奇跡が起こった」世界の探求譚で、そんな世界での考古学の、物理学の、自由意志の意味が問われていくことになる。

「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」

「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」はもっとも長い作品(120ページほど)で、少しずつ人間によって教育され、成長していく人工生物を取り扱っている。ディジエントと呼ばれる彼ら人工生物は最初こそ赤ちゃんのようなものだが、数十年に渡る長期間の教育の果てに次第に高度な知能や豊かな感情を有するようになり、何より彼らの飼い主との深い絆や感情的なつながりが生まれていくようになる。

長らく動物の飼育員として働いた女性を中心におき、(人工生物であっても、であるからこその)教え、先導し、育てることの難しさを丹念に描き出していく流れが素晴らしいのはもちろんだが、この120ページほどの中に人工生物が社会に溶け込む際の困難、論点などが幅広く網羅されている点もおもしろい。自分の気に喰わない成長をしたらオーナーは任意の時点まで成長を戻すことができるが、その倫理的な是非。人間が介入することのないディジエントの教育は可能なのか。ディジエントと人間の性的な関係性についてや、ディジエントの虐待を公開するものも現れ、人工生物が種として法的な保護を受けられるかどうかという議論も加速していく。

人工生物が根付いた社会について、隅々まで想像力が行き渡っていく絶品だ。子育てを扱ったものとしては他にも、機械による子育てを取り扱う「デイシー式全自動ナニー」、ライフログをすべて残すだけでなく瞬時の検索が可能になったことで、完全な記憶の外部化が実現された社会を描き出す「偽りのない事実、偽りのない気持ち」がある。特に後者は、思い込みからくる父娘の葛藤が染み渡る傑作なんだよなあ……。

おわりに

とまあ、ざっと9篇を紹介してきたけれどもいかがだったでしょうか。僕は一年ぐらい前にそれどこというサイトでSF初心者向けのSFを5篇紹介したが、今選ぶならこの『息吹』はぜひ入れたいなあ……と思っている。SF短篇の醍醐味は(すべてではないにしろ)ここにあらかたつまっているからだ。ぜひ、堪能してもらいたい。

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

  • 作者:テッド・チャン
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2003/09/30
  • メディア: 文庫

*1:これは著者の作品としては17年ぶりということで、邦訳刊行としては16年ぶり