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魔法が混ぜ合わされた難民・移動文学──『西への出口』

西への出口 (新潮クレスト・ブックス)

西への出口 (新潮クレスト・ブックス)

この『西への出口』は、パキスタンに生まれた後、アメリカにわたり英語で作品を発表し続けている(今はパキスタン、ロンドン、ニューヨークを行き来している)モーシン・ハミッドによる長篇小説である。その経歴を反映してか、パキスタンとアメリカの文化のはざまでのもがき、パキスタンの政治的・軍事的難況を個人の人生と並行で語っていくスタイルが人気を博しているようだ*1

本作もその流れに連なる一作になる。国名が明言されない、内線が激化し日々市民への被害が大きくなっている街で二人の男女が恋に落ち、くぐり抜けることでどこか別の場所に行くことができるという扉をくぐり抜けて「今よりももっとマシな場所、」を探して放浪を続ける、いわば難民と、なんといっても移動についての文学である。

戦争によって歪められてしまう個人の日常の筆致、扉を通じて、ギリシャ、イギリス、アメリカとどんどん西へと移動を繰り返す二人の男女が遭遇する苦難や災難、そうした二人の日常に接続された形で、新宿やシドニー、カリフォルニアなど世界中の都市へと移動した人々の苦難も描き出されていく。彼らはなぜそこへやってきたのか。そして、どうしたらいいのか。『自分はどこへ行けばいいのか、と老人は自問した。考えてみると、行くべき場所をひとつも思いつかないことに気がついた。』

じわじわと侵食されていく日常

物語の前半部は、保険会社に勤めているナディア、広告代理店に勤めているサイード両者を中心として戦争が日常を変えていく様子が淡々と描かれていく。

たとえば二人とも最初は普通に働いているのだが、次第に武装組織が街の各地で支配域を作るようになる。最初は数時間しかもたないその支配も、数日間もちこたえることもあり、いつからか市民に対しての夜間外出禁止令が出されることになる。サイードの父親はもっと自分は別の道を選ぶべきだった、そうすれば息子を外国に送ってやるだけの金ができたのにと悔やみ、サイードの母親は一回たりとも欠かさず礼拝をするようになった。サイードの日常は、同僚が次第に出勤しなくなり、戦闘の状況についてやどうすれば国外に出られるかについての話題が支配的になっていく。

夜間外出禁止令にくわえ、地区外への移動が禁止され、サイードとナディアは会うことすらもできなくなる。そんな状況下であっても、インターネットはまだ繋がっていた。二人はメッセージを送り合い、一時的には盛り上がる遠距離恋愛を楽しんでいたが、ある時一時的なテロ対策だとして、街の電波さえも奪われてしまう。

 ナディアの部屋には固定電話はなかった。サイードの家の固定電話は何ヶ月も前から止まっていた。携帯電話が与えてくれていた、おたがいへの、そして世界への扉がなくなり、夜間外出禁止令によってそれぞれのアパートに閉じ込められ、ナディアをサイード、そして無数の人々は、孤島に置き去りにされたように感じ、さらなる旧王府を覚えた。

モーシン・ハミッドは移民や難民が介在する現代を描く作家といわれるが、こうした「インターネットが奪われた」描写などは読んでいて現代的な絶望だなと感じる。他にも、人々の監視をするためのドローンが飛び回っている様子も度々描写されており、テクノロジーがもたらした戦争と難民の生活への変化が日常に織り込まれている点はファンタジィ、幻想というよりSF的な感触を呼び起こすところだ。

魔法の扉

それと共に戦闘は激しさを待ち、空爆も行われ、当然ながら仕事の業務も停止し……と事態はどんどん悪化していく。そこで蔓延するのが「遠く離れた別の国へ連れて行ってくれる」という扉の噂。普通に考えたらそんなものがあるわけないのだが、サイードとナディアは専門の代理人を介することで、その扉をくぐることになる。

扉をくぐるにあたって、サイードの父親は二人と一緒にいくことを拒否する。それには、サイードの母親が先日戦争のあおりをくらって亡くなったこと。老いた父親がサイードらと一緒にいくことで荷物になることを嫌ったことなど、無数の理由があり、残して扉をくぐる側にも相当な葛藤がある。そうした、いざ「難民」と一言で表現した時に消えてしまいがちな、「難民となった人が残してきた人たち」のことまでが細やかに描きこまれていくのも本書の魅力の一つである。『人生とはそういうものだ。移住するとき、私たちは、あとに残してきた人々を人生から抹殺してしまう。』

 そのころ、移動は死にも誕生にも似ていると言われていた。ナディアはその暗闇に入るときには消滅するような感覚になり、暗闇から出ようとするときにはあえぎつつもがいた。打ち身だらけの、濡れて冷えた体で、扉の反対側にある部屋の床に横になり、震えつつ、最初は披露で立ち上がることもできず、どうにか空気を吸い込もうとしながら、この濡れた感覚はすべて自分の汗なのだと考えていた。

おわりに

そうして二人が扉をくぐりぬけた先は、ギリシャのミコノス島であった。そこでは難民が集まりキャンプを張っていて、ここから先は移動を繰り返しながら、難民として他国で生きることの困難さが語られていく。特殊な「扉」があるからこそ「移動」がもたらす帰結のみが凝縮して描き出されている。排外主義者らに迫害され、様々な文化を持つ人々が共に暮らす摩擦、移動がもたらす、次こそはもっとマシかもしれないという希望など、移動と難民にまつわるテーマが多角的に取り上げられていくのだ。

わりと世界中にこの扉があるみたいで、それによって世界が変質しているのが読み取れるところもおもしろかった。削ぎ落とされた描写によって180pほどにまとめあげられた、洗練された物語だ。

*1:ほかは未訳なので未読、と書いていたがコメントで『コウモリの見た夢』も邦訳版が出てますよ〜と教えていただきました