基本読書

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意識のアップロードを望むか?──『幽霊を創出したのは誰か? Who Created the Ghost?』

講談社タイガで刊行中の、森博嗣によるWWシリーズ『キャサリンはどのように子供を産んだのか』に次ぐ第四巻である。(今作に限らず)独立性の高い作品なので、どこから読み始めても問題はない。この世界には、人工的に作られた有機生命体ウォーカロンが存在し、人間は人工細胞で自身らの体を作り変えて以後、子供がほぼ生まれなくなった。一方で寿命は延び、ほぼ死ななくなった未来の世界を描き出していく。
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本作について──この時代における幽霊とはなんなのか?

本作で焦点があたるのは書名に入っている「幽霊」だ。20世紀には大人気だった心霊番組は、科学全盛のこの時代に次第にその数を減らしつつある。そんな状況なので、遥か未来を舞台にした本シリーズで幽霊に焦点があたるのは意外な気もする。

幽霊というのは無から創造されたわけではなくて、人間の認知能力や文化といったものと密接に関わった存在である。たとえば、死んでしまった人ともう会えないという苦しみ、死んでしまった人間にひどいことをしてしまったという悔恨が幽霊が現れる理由の一端であるのだろう。であれば、ほとんど人が死ななくなったこのWシリーズのような世界では幽霊概念それ自体が希薄になっていくのも当然と思える。

実際、幽霊譚は少なくなっているようだが、この世界でもまだ幽霊がいなくなったわけではないようだ。中心人物であるグアトとロジの二人は、ロミオとジュリエットのような悲劇的な恋愛をした二人が自殺をし、その後幽霊になってあたりをさまよっているという噂を聞きつけ、(出ると噂の)城跡にピクニックがてら赴くことにする。そこで二人は実際に幽霊的な二人の男女を見つけ、グアトに至っては会話すらするのだが──と幽霊との遭遇を起点として、二人は奇妙な事件に巻き込まれることになる。

これまでのシリーズを通して最も穏健な巻かもしれない。引用本であるコーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』(終末SFを代表する名著)のように、淡々と「この時代における幽霊とはどのような形がありえるのか」という議論をさし挟みながら、物語は進行していく。ここでおもしろいのが、「テクノロジーの進歩によって幽霊の現れ方・考察の仕方も変わってくる」ということだ。たとえば、携帯電話が出てきたら、携帯電話をモチーフにした幽霊譚が出てくるように、新たなテクノロジーは幽霊を駆逐するものではなくて、幽霊と合わさって発展していくものなのである。

この時代にはトランスファと呼ばれる体を持たない人工知性が存在していて、たとえば彼らは生身の体を持たず、ロボットからロボットへと次々に移動していくことができるから、ある意味では幽霊的な存在であるといえる。人は「なぜ幽霊を創出するのか」、そして、「幽霊とは何であるのか」がこの時代のテクノロジーのあり方、ヴァーチャルとリアルの関係性と合わせてミステリイ的に語られていく。

自分の頭の中をヴァーチャルに移行するべきか否か

本作で語られていくテーマのひとつに、「自分の頭の中をヴァーチャルに移行するべきか否か」がある。この作中の時代、リアルにしか得られない感覚というのはほとんど存在しない。むしろそれは運動すれば疲れ、切断されれば痛みを感じる不都合なものでしかない。無論、ヴァーチャルの中であればそうした痛みや疲れさえも再現できるから、ただの「自由度の低いバーチャル」的な扱いになってしまっている。

ヴァーチャルの基盤はリアルに依存しているのであって、リアルが崩壊すればヴァーチャルに移行した生命も死んでしまう。だが、ヴァーチャルが維持できないほど基盤が破壊されたとなった場合、リアルもタダではすまない状態になっている=リアルとヴァーチャルは不可分になっているわけで、もはやそうしたことが問題になるフェーズは超えている時代であるといえる。こうした議論は、SFでは繰りかえされてきた。

その論争のメインといえるのは、一つは今書いたように「意識をサーバにアップロードしちゃえばいいじゃん」派である。もう一つは、「人間の意識、思考というのは体と密接に関わりあっているのだからそんなことはできない!」派だ。実際にはまだまだ意識をサーバやロボットに移し替えることはできていないのだけど、これから先もずっとできないというわけでもあるまい。で、たしかに我々の意識や思考というのは肉体による制約を強く受けている。身体的な感覚、快楽から不快を目指すようにできているし、疲労や痛みがなかったら我々は考えをかえるはずだ、仮にそんなこと(意識のアップロード)が実現できたとして、それは体を持ったあなたとは別人だろう。

ただ、一方で「現在の意識や思考が身体そのものと不可分であったとしても、その場合身体由来の思考が欠落した部分がアップロードされるだけ」ともいえ、それが許容できるのであれば後者の論点は特に問題にはならなくなる。個人的には人間なんて生きている間に次々身体の調子が変わっていって(悪くなっていって)、それによる意識と思考の変容を経験しているんだから、そんなこと問題にしたってしょうがないだろう、と思う。あと、身体的な感覚さえもまるっとシミュレートできるようになれば、「身体と精神は不可分」派の反論は一切根拠を失ってしまうだろう。

であれば、ヴァーチャルの比重が極限まで高まった社会では人間は(この人間の定義は今の人間よりももっと広くなっている)リアルの体を捨てるのだろうか? 仮に、そうなったとしたら、その時ヴァーチャルの住人となった人々は一体何をのぞむのだろうか。『ザ・ロード』ほど本シリーズの世界は荒廃しているわけではないが、精神的にはどんどん退廃的な感覚が積み重なっていて、「精神的な終末もの」的な読み味があるな、と今巻をよみながら考えていた。