基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

史上もっとも偉大な科学予測の試みとクラークに評された、科学と人類の未来について論じた先駆的名著──『宇宙・肉体・悪魔──理性的精神の敵について』

この『『宇宙・肉体・悪魔──理性的精神の敵について』』は、X線結晶構造解析のパイオニアであり分子生物学の礎を築いたと言われるJ・D・バナールによる、1929年に刊行された人類の未来について書かれた一冊である。原著が100年近く前であり、過去にみすずで刊行されたのも1972年と、言ってしまえば非常に古臭い本である。

僕も今回みすずから新版が出るということではじめて読んだのだけれども、いやはやこれには心底驚かされた。バナールが本書で論じたのは、今の我々が暮らす時代よりもさらに先、科学がさらに発展した状況のことであり、人間が身体を機械化し場合によっては宇宙に植民地を広げていくような時にいったい人類にいったい何が起こるのか、という未来のことなのである。そして、その論、そのヴィジョンは今読んでも決して古びているとは思えないどころか、今まさに我々が問われていることとシンクロし、さらにそのさきを考えていて、1929年の時点でなぜここまでのヴィジョンをみることができたのか……と戦慄するような思いを味わいながら読んでいた。

瀬名秀明氏によって書き下ろされた解説では、本書の主張はイギリスの作家オラフ・ステープルドンやアーサー・C・クラークに影響を与え、その精神性はさらに今日多くのSF作家、SF愛好者に受け継がれており、『つまり本書は現代SFのルーツだといってよい。たとえバナールや本書の名を知らなくとも、本書を一読すればこれまで何気なく接してきた多くのアイデアがすでに書き記されていることにきっと驚かれるはずだ。』と書かれているが、これがまったく誇張なくその通りだと実感する。

内容を紹介する。──宇宙

バナールの未来予測は具体的にこういう科学技術が生み出されるとか、どのような民主制度になるかとかそういうレベルを超えて、より大きな枠組みとして人類がどのようになるのかを描き出している。たとえば、まず人類はどこかのタイミングで宇宙への植民に乗り出すだろう。その時我々は球殻の宇宙島を軌道上に浮かべることで、無重力下での生活を送るようになる。球体は他の球体や地球と絶えず無電(ワイヤレス)で通信し、この通信はわれわれが持っているあらいゆる種類の感覚的情報の伝達を含むばかりではなく、将来われわれが獲得するたぐいの情報をも含むだろう。

1929年の時点でスペース・コロニー構想をしているのも凄いが(バナールのこの発想はその後もバナール球として後のスペース・コロニー構想者らに受け継がれていく)、さらに凄いのはこの時点でいくつかのツッコミを想定し、反論を用意しているところだ。たとえば、バナールのこのスペース・コロニー構想は、ただスペース・コロニーを作ってそこに住んで終わりといっているのではなく、基本的に人間の身体が機械に置き換えられている状況とセットで語られているのである。何しろ、人間が生身で宇宙空間に出れば即死するから、安全装置をコロニーには組み込まねばならない。

だが、人間の身体がそもそも極度に機械化されていればコロニーでの設備を最小限にすることができる。『そして、明らかに宇宙空間の諸条件は、生物的な人間にとってよりは、機械化された人間にとっていっそう有利である。もし人間が身体の多くの部分を除去され、酸素と水分に富む食料とをかなり大量に摂取する必要から解放されることができるなら、宇宙空間の植民球体の細胞構造は必要でなくなろう。』これは、現代の宇宙倫理学=人類が宇宙に出る理由でも真面目に検討されている事案である。

また、そのようなスペース・コロニーで暮らすのは退屈なのではないかという観点についても、そもそもそんな状態になった人類はいま・ここのわれわれとは感性も目的も大きく異なっていると仮定せねばならないとしている。仕事もないはずで、その時代の人々の感性はより抽象芸術の方へ向かったり、科学の問題など専門領域の語り合いに終始するはずであり、場所の空間的な制約は問題にならないとする。

さらには、そうした(ほぼ)寿命から解放されたはずの人類は太陽の終末にも付き合わねばならぬはずであり、太陽系を離脱するためには何を考慮しなければいけないのか、ということが「宇宙」の章では考察されていく。まだまだこの1929年というのはクラークもハインラインもアシモフも出現していない時代、ようやく「サイエンス・フィクション」という言葉がヒューゴー・ガーンズバックによって雑誌で生み出された(これが同じく1929年)ばかりの時代にここまで想像していたのである。

内容を紹介する。──肉体

続く「肉体」の章では人類がおそらくその非効率な人体諸器官を捨て、身体の一部またはすべてを機械に置き換えていくというヴィジョンが語られる。

さらには、お互いの神経を相互接続することでより情報の伝達をスムーズにし、一種の群体脳のようになっていく可能性も検討される。『最後に、意識そのものが人間世界の中で消滅していくかもしれない。人間世界が完全にエーテル化し、編み目のつんだ有機的権威を失い、電波によって互いに通信する空間の原子群となり、ついにはおそらく全く光に解消してしまうかもしれないのである。』

生物学的制約から解き放たれた時、何を望むのか

重要なのは、我々はそうやってある種「生物の制約」から解き放たれた時に何を望むのだろうか? という問いかけである。今のわれわれが望んでいることの多くは生物としての要請に従った結果のものであることがほとんどである。たとえば、ボタンパラメータをいじることができるようになった時、何を望むのだろうか。

その新しい人類は、われわれから変化しているとはいえもはやわれわれとはまったく別の種に相当するから、その指向を想像するのは困難を極める。実はこの問いかけ自体はユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』の中で、身体をサイボーグ化し、幸福も感情も環境も何もかも思うがままになった時を想定した問いかけとまったく同じだ。『私達が直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない』(『サピエンス全史』より)

これは、本書(宇宙・肉体〜)で述べられている『われわれはやがて、生きるために考えるのではなく、考えるために生きるようになるかもしれない』と重なっている。ただ、解像度としてはバナールの方が勝っているといえるだろう。

おわりに

だが、両者ともあくまでもその問いかけで終わっていることは否めない。その先、ヴィジョンを描くのは(本書はすでに十分SF的だが)、SFの役目なのかもしれない。ただ、SFも、グレッグ・イーガンなどの一部の作家を除けば、人類がはるか未来、ある種の電子生命となり、あらゆる環境的制約から解き放たれた時に何を望むのかをきちんと描いているとは、とてもいいがたいのだけれども。

無限の可能性を有するようになった科学に形態を与えるのは、文学をはじめとした芸術の役割でもある。そしてその芸術はまた科学の影響を受け、すべては「総合知」として相互発展していく。単なる宇宙、人類の未来についての書であるだけでなく、本書はそうした思想的なヴィジョンを指し示す一冊でもある。僅か120ページほどの本なので、ぜひ手にとってもらいたい。これはすごいぜ。