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基礎科学の重要性──『「役に立たない」科学が役に立つ』

この『「役に立たない」科学が役に立つ』はプリンストン高等研究所のエイブラハム・フレクスナー(1866-1959)、ロベルト・ダイクラーフ(1960-)の二人のエッセイを収録した一冊である。100ページ程度の薄い本で、その約半分ほどはフレクスナーによる1930年代に発表された文章を元にしているので、半分古典といえる。

しかし、ここで語られていることはそうそう古びるものではない。短い内容なので簡単に要約してしまうが、それは「基礎研究は重要だよ」ということである。応用研究は成果が見えやすいので、そうした方向に力を入れたくなる気持ちもわかるが、かといって歴史を変えた科学の多くは最初はなんの役に立つのかさっぱりわからない純粋な好奇心の追求からはじまっているのであって、そうした「役に立たない」科学をないがしろにしたら、いったいどうなってしまうのだろうか、とそう語りかけてくる。

現状、日本の大学において基礎研究が重視されているとはいえないだろう。2016年に生理学・医学賞を受賞した東京工業大学栄誉教授の大隅良典は、受賞後にこのままでは将来、日本からノーベル賞学者がでなくなると繰り返した。氏の提言は重く、本書にも関わるので引用させてもらう。『役に立つかどうかという観点でばかり科学を捉えると、社会をダメにすると思う。科学の世界では、『役に立つ』を、『数年後に実用化できる』と同義語に使うことがあるが、大いに問題だ。その科学が本当に役に立つのは、10年後、20年後かもしれないし、100年後かもしれない。将来を見据え、科学を文化として認めてくれるような社会にならないかと思っている。』*1

また、岩本宣明による『科学者が消える: ノーベル賞が取れなくなる日本』では日本の研究の(あまり明るくない)現状が記されている。理系博士課程入学者はピーク時の3分の2になり、博士課程入学者は2003年から2017年の間に40%減。その博士課程修了者の6割も非正規雇用かポスト待ちで、そんな状態でそもそも基礎研究が(前と同じような速度で)進展するはずもないが、自然科学系の論文数も被引用数も減少し続け、大学機関の教授・部長クラスへのアンケートでも「役に立つ研究・成果が望める研究のみに研究費が集中しているように感じる」という声が多数現れている。

基礎研究が世界を変える

そうした状況は、アメリカでも変わりはないらしい。現在の研究環境は、不完全な評価指標と政策に支配されている。世界的な政情不安や悪化する経済もあいまって保守的な短期目標を重視する方向に向かっていて、緊急性の高い目標ばかり追って、10年、20年、100年以上先に花開くかもしれない研究に注力できていないという。

『フレクスナーの時代と同様、今日、そして明日の世界へとつづく進歩は、技術的な専門知識だけでなされるわけではない。妨げられることのない好奇心、現実的な考察の流れに逆らってはるか上流へとさかのぼろうとする気概、そして、それを楽しむ心によってなされるのだ。』とは、ダイクラーフの弁。量子力学や原子の研究は、20世紀のはじめには理論上の遊びと思われていて「少年の物理学」といわれていた。だが、これがなければ我々の世界に対する理解は今よりずっと後退したままだった。

ミクロな世界では量子論を用いたシミュレーションが不可欠で、マイクロプロセッサやナノテクノロジーに依存する現代の世界においてその知識がない状態は考えられない。アインシュタインの相対性理論も日常的に使われるようになるまでに長い時間がかかったが、GPSはこの相対性理論抜きには正確な位置と時間情報を指し示すことはできない。DNAの二重らせん構造の発見、ヒトゲノムの配列解読は後の製薬に革命をもたらし、ゲノム編集技術CRISPR-Cas9といった革新的な技術に繋がっていく。

電磁気学に関するマクスウェルの方程式があり、その後にハインリッヒ・ヘルツによって電磁波の生成と検出の技術が生み出されたからこそ、その応用としてラジオが生まれた。それらはすべて、「こうした用途に役立てよう」という発想から産まれたものではない。『けれども、ただ一つ確実なのは、ヘルツとマクスウェルは、実用的価値など考えていなかったということです。さらには、科学の歴史を通して、後に人類にとって有益だと判明する真に重大な発見のほとんどは、有用性を追う人々ではなく、単に自らの好奇心を満たそうとした人々によってなされた、ということです』

おわりに

重要なのは、フレクスナーもダイクラーフも、「基礎研究をしていればいずれ大きなリターンがあるから基礎研究をしろ」と言っているわけではない点だ。「有用性」という言葉を捨てて、ただひたすらに自身の興味・好奇心に従った先に、こうした大きな発見がありえる、ということである。その過程で、無害な変人が貴重な研究費を無駄にすることも確かだが、それを許容するからこそ、マクスウェルやアインシュタインやラザフォードといった科学者・研究者を生みだすのだ、というのである。

大隅良典も東京工業大学の受験生に向けたメッセージで、『私は基礎科学者ですから、純粋に“知りたいこと“を研究してきました。それが結果として病気の解明につながったことは幸運でしたが、それが目的だったことは一度もありません。』*2と語っている。基礎科学とは人間の「知」それ自体を広めるものであって、そうした源泉から思いがけないものが産まれてくるものなのだけれども、今まさに目の前に金がなく、社会全体が貧しくなっている状態で、「基礎科学は重要だから金と時間をかけろ」とだけいっても、おそらく社会の合意も、支援も得ることはできないだろう。

だから、基礎科学が重要なのはもちろんだが、それと同じぐらいにそうした「最終的な成果がわかりづらい知の重要性」をきちんと社会に伝えていかなければならない。本書はそうした試みの一つであるし、僕も僅かであってもそうした科学への啓蒙をしていかなければいけないなと、あらためて思い直させてくれる一冊だった。