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あり得たかもしれない宇宙開発史を描き出す、主要SF賞総なめの話題作──『宇宙へ』

この『宇宙(そら)へ』は、メアリ・ロビネット・コワルによる、1950年代の女性の計算者&パイロットの物語を描き出す、宇宙開発系のSFである。ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞というアメリカの主要SF関連賞を総なめにした、SFにおける今年最大の話題作のひとつ。僕はそもそも、SFとしては現実的な科学に根ざして宇宙を舞台に展開する物語、宇宙開発系と言われるサブジャンル全般が特に好きだから、本作にも大いに期待していたんだけど──いやーこれはおもしろかった!

主な舞台となっているのは先に書いたように1950年代のアメリカだが、この世界は我々の知るものとその様相が異なってしまっている。というのも、1952年の3月3日、現地時間で朝の10時前に、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C沿岸の海上に巨大な隕石が落下した世界なのだ。依然アメリカとソ連は一瞬即発の状態であり、誰もがソ連の核が爆発したと思うが、狂騒が落ち着いてくると隕石が落ちたことは誰の目にも明らかになっていく。数百キロに及ぶ莫大な範囲の人間が死んだだけでなく、当時上院も下院も開会中だったため、連邦政府の中枢がほぼ全滅という事態に。

隕石は、「地表にぶつかった時」の衝撃による死者数よりも、それによって地面が深くえぐれ、火災や大量の津波が引き起こされ、粉塵や硫黄が大気中に放出され太陽が地表にまで届かなくなることによる地球の寒冷化など、「地球環境の激変」の被害が大きいとみられている。恐竜の絶滅に関しても、多くの死因はそうした環境の変化に由来するものだというが、それは本作における隕石においても例外ではない。

大量に巻き上げられた粉塵はしばらく落ちてくることもなく太陽を遮るので、地球は全地域的に何年かの間寒冷化に陥る。当然その間食料はろくに育てられずピンチになるが──今回に関して言えば、隕石が海上に落ちたことによって、大気中に大量の水蒸気が巻き起こり、水蒸気は熱を蓄え、それがまたさらに水分の蒸発を誘発し、という形で、「寒冷化の後に極度の温暖化が進行する」とみられている。

ありえたかもしれない宇宙開発史

落ちてくれば収まる塵と違って、水蒸気の場合は悪循環のループが止まる見込みはない。湿度100%、気温49℃の夏が続き、いつかは海が沸騰、地球は人が住めない惑星になる──そうした試算を出したのが、本書の中心人物であるエルマ・ヨークだ。彼女も最初は被災者の一人だったが、元軍パイロットであったこと、夫のナサニエルがロケット科学者であることが関係し、国の中枢に近い場所から、この未曾有の事態に本格的に関わることになっていく。彼女の得意な計算能力を活かして──。

 自分はなにひとつ世のために寄与できていないような気がしており、こんな疑問がつのるいっぽうだった。自分はなぜ生き延びたのだろう? なぜこのわたしが? ほかのもっと役に立つ人間ではなく?
 わかっている。この考えが論理的でも合理的でもないことはわかっている。じっさい自分は、被災者の救助に汗をかいてもいる。しかし……いまわたしがしている仕事は、わたしでなくてはできないものではない。いまのわたしは取り替えのきく歯車でしかない。
 しかし、計算は? 数字という純然たる抽象的観念は、わたしの得意分野ではないか。これなら、たいていの人間よりもうまくできる。

そうやって、「自分にできること」として数学を選んだ彼女は、隕石落下時のチェサピーク湾の温度やその付近の海水が沸騰し続けていた期間と質量などから隕石の組成や直径の概算値を割り出し(約29キロメートル。もちろん各分野の専門家と連携しての試算値)数学者として貢献していくわけだけれども、物語はそこで終わらない。

地球温暖化が止められないことは明らかであり、そうである以上、国家的な事業として「地球外への入植」を検討することになるのだ。現実の歴史的には、1969年にアポロ11号が月着陸を成し遂げてから、宇宙開発にかけられる予算は少なくなり、科学的に「宇宙にあまり夢をみない」時代が長く続くことになる。それが、この世界では地球を脱出する、冷戦などよりも切羽詰まった「宇宙開発に邁進する」大義名分が存在するわけで、月着陸などはこの時代の人々にとってはただの通過点にすぎない。

ここで描かれていくのは「ありえたかもしれない、もうひとつの宇宙開発史」であるといえる。

女性パイロットの物語

そうした悪夢的な状況から、人類は宇宙に脱出して生き残ることができるのか──というプロットと合わせて語られていくのが、女性宇宙飛行士たちの物語である。月にコロニーを建設するのであれば、パイロットを宇宙に幾人も送り込まなければならないが、最初、女性たちにその居場所はない。必要と認識すらされていない。今でこそ女性宇宙飛行士も増えてきたが、1950年代、60年代はまだまだ男性至上主義の時代であり、「男性のパイロットが死ねば、悲劇だ。だが、女性が死んだら? その時点で宇宙計画は永遠に閉ざされてしまう」という扱いをされている存在なのだ。

そんな状況で、女性宇宙飛行士を認めさせるのは大変に骨の折れる仕事だ。頭の硬いやつを説得し、メディアに露出し社会の雰囲気を変え、そこまでやった上でパイロットとしての有用性を示さねばならない。高度な計算能力を有し(1950年代なので、宇宙に出た後無線が途絶することもありえ、その間は自分である程度の準備を行わねばならないので、計算能力は重要)パイロット経験も豊富であるエルマ・ヨークを中心とした女性たちは、果敢に自分たちを認めさせるために立ち上がっていく。

それは「自分たちも宇宙に行きたい」という好奇心や冒険心に喚起されたものではあるが、「ずっと存続するコロニー」を建設するのであれば、そこに女性がいないなどということはおかしいではないか、という最もな理屈が伴っている。現在でさえ、女性宇宙飛行士の数は多いとはいえない。2019年の3月に、宇宙飛行士のアン・マクレーンとクリスティーナ・コックははじめて女性だけのチームで船外活動をする予定だったが、マクレーンは参加できなかった。予定されていた船外活動の日までにマクレーンに合うサイズの宇宙服が調達できなかったからというのがその理由だ。

宇宙飛行士のほとんどは依然男性であり、女性にとって動きやすいサイズの服も足りなければ、女性の船外活動におけるデータも少ない。この世界における宇宙開発史の初期から、パイロットとして積極的に女性が関わっていたらどうなっていただろうか? 少なくとも、今のような状況にはなっていなかっただろう。そうした観点からも、本作は「ありえたかもしれない宇宙開発史」の物語なのだ。

おわりに

正直な話、地球の気温が上がって住めなくなるからといってじゃあ地球を出ていこうとはならんやろ。まず模索されるべきは地球の脱出ではなく気候工学、ジオエンジニアリングでの解決だと(現在でも地球温暖化対策のために、反射性の粒子を成層圏に撒いて太陽を遮ろうという案もある)思うんだけど、宇宙開発が盛り上がっていた1950年代から60年代にかけての時代性と合わせて押し切ってくれた感もある。

あと、あくまでもこれはエルマ・ヨークという一人の宇宙飛行士兼計算者の女性の物語であって、全人類がこの終末的状況に立ち向かっていく話ではない、ということもある。ちなみにそんな壮大な話がこの上下巻で完結するの? と思うかもしれないが、エルマ・ヨークの話としてはよくまとまっているものの、人類全体の話としてはまだまだ続くのでその点はご注意を(続刊が3冊出ている。内1冊は2020年刊)。

しかし、本作の『宇宙へ』というタイトルは内容をよく表しているとはいえ、原題は『The Calculating Stars』であり、未曾有の事態に数学を武器に立ち向かう女性の物語なのだから、邦題にも「計算」要素は残しておいてもらいたかったなとちと残念。宇宙開発競争の中で計算手として活躍していた女性たちの物語である映画『ドリーム』や、ナタリア・ホルトによる『ロケットガールの誕生: コンピューターになった女性たち』が出て、計算をする女性たちの物語という流れはあるのだけれども。
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