基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

自由に自分の幸福度を決められる時、医者はそこに上限を設けるべきだろうか?──『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』

闇の脳科学ってどゆこと? 闇の脳科学があるってことは光の脳科学もあるのか? とか「完全な人間」ってなんだ?? 中田敦彦か?? とかいろいろ思いながら開いて読み始めた本だけれどもいやはやこれがめちゃくちゃおもしろい!!

邦題だけじゃなんのこっちゃわからないと思うが(原題を訳すと『プレジャーショック──脳深部刺激療法の始まりと忘れ去られたその考案者』)、本書は脳に直接電気刺激を与えることによって、うつや統合失調症、同性愛など様々な病気・症状を治療しようとし、数々の人体治療に手を出し、世間や学者らから批判を食らって忘れ去られていったロバート・ガルブレイス・ヒースという科学者の人生とその研究成果。また、こうした脳に刺激を与えることで病気の症状を治療しようとする、現在の脳科学&DARPA(米国の国防高等研究計画局)の研究状況についてまとめた一冊である。

著者のローン・フランクは神経生物学の博士号を持つジャーナリストで、たまたまこのロバート・ヒースの存在を知り、彼の研究・業績を知るうちに、彼は本当に非難されるべきマッドサイエンティストなのか、はたまた脳深部刺激療法の先駆けとなった偉大な科学者なのか、両面を併せ持つ人物なのかを調べ始めることになる。ロバート・ヒースは1915年生まれで1999年に亡くなっている。だが、彼の研究に関わった人物や弟子、子供はまだ生きていて、そうした人物に丁寧にインタビューを重ねていくことで、彼の研究の実態、そして現在の脳深部刺激療法を解き明かしていく。

ロバート・ヒースが旺盛に研究していた1950年代から60年代にかけては、まだまだ技術も発展途上で、精神的な問題を解決するために前頭葉と視床を切り離すロボトミー手術が当たり前に受け入れられていた時代でもあったし、倫理観や価値観が現代の我々とは異なっていた。たとえば、最初に同性愛を病気として治療しようとし──と書いたが、これは僕が同性愛を病気と思っているわけではなく、当時はそうした認識があり、ロバート・ヒースは患者の治療のためにそれを実施したということである。

同性愛者が異性愛者になる?

悪名高いその治療で、ヒースは同性愛者の患者にたいして、快楽中枢に電極を埋め込み、雇った娼婦をあてがって、性的な興奮を起こさせようとしている。電極は機能したのか? というと、機能したようだ。これまで女性で欲情しなかった彼はその時は欲情し、性交し、オーガズムにも達したという。きちんと論文にもなっている。

この治療は世間から多くの非難を浴びたが、この実験も手続きや承認、許可をすべてとったものだったし、ヒースのキャリア自体は本物だ。1950年から20年以上、統合失調症からうつ病に至るまで様々な精神疾患の治療を、脳深部へと電極を挿し込むことで成し遂げていた。特に統合失調症への治療はうまくいかないことも多かったようだが、それでも多くの患者を実際に改善に向かわせており、それは非可逆的に患者を変えてしまっていた当時のロボトミー技術などと比べればまだ良心的といえる。

精神医学における脳深部刺激療法はいま、アルコール依存症、過食症までもがその対象となっていて、米国防高等研究計画局、DARPAもここに多額の資金を投下している。たとえば、帰還兵の心的外傷後ストレス障害は重く、恐ろしい体験のフラッシュバックに襲われ、不安発作によって衰弱してしまう。DARPAが目指しているのは、発作が起きるサインを捉えて千分の一秒以内に反応し、信号が意識に侵入するのを妨害する、埋込み式の自動制御装置である。恐怖は扁桃体で生まれるが、扁桃体の活動を抑制し、大脳皮質を刺激すれば、恐怖反応を抑制できると考えているそうだ。

そうした技術に誰よりも先駆け、精通していたのがロバート・ヒースなのだ。ライターのローン・フランクは完全にヒースに同調していて、そこまではついていけないかな……とヒイてしまうところもあるが、ヒースがやってきたその成果を読むと、シンプルなマッド・サイエンティストとは思えないどころか、彼がかつてやってきたようなことを、今多くの研究者が後追いでやろうとしている状況が浮かび上がってくる。

幸福感に上限を設けるべきか?

本書で興味深かった問いかけの一つは、「幸福感に上限を設けるべきか」というものだ。ヒース自身も患者に電極をつけ、スイッチを渡して「どこがもっとも快楽に繋がっているのか」を確かめる実験を行っていたが(中隔野と、中脳被蓋と、左の視床内側中心核を同時に押すのがもっとも良いという)、この研究は今も続いている。

「幸福感に上限を設けるべきか」は、実際に2012年にドイツ人二人とアメリカ人一人のチームで発表された論文のタイトルだ。たとえば、脳深部刺激を用いれば、人は自分の幸福度を自分で決められる。その時、どこまでも幸福感を追求するのを患者に決めさせてよいのか、はたまた上限は医者が決めるべきなのか? これは未来に想定される問いかけではなく、実際にすでに目の前にある問いかけ・問題だ。

ある患者は33歳のドイツ人男性で、強迫性障害と全般性不安障害に長年苦しめられていた。彼は数年前に、治療として側坐核(報酬系の中心部)に電極を埋め込む手術を受け、これによって症状はよくなっていたが、数年ごとに電池交換と簡単な外科手術が必要となる。で、その時に、側坐核の刺激のボルト数の調整(1〜5の範囲で)も行ったのだが、この時に自己申告で幸福度と不安度を1〜10までで判断させた。

1ボルトだと効果なく、4ボルトまで上げると幸福度は最大値として提示していた10に上がり、不安感がまったくなくなったという。逆に、5ボルトまであげると、素晴らしい気分だけどやりすぎだという。『患者は自分ではどうしようもないほどのエクスタシーを感じ、そのために不安度が「7」にまで上昇してしまった』

結局患者と医者は設定値を「3ボルト」にすることで合意したのだが、退院する時になって、患者は「ボルトをもう少し上げてくれないか」と言い出した。『今のままでも調子はいいです、でも「もう少し幸福度を上げたい」気もするんです、と。』まさに論文の問いかけが必要とされる場面だ。この時、医師らはこの依頼を断った。常時この上なく幸福でいることは素晴らしいことかもしれないが、高揚したり落ち込んだりといった自然な気分変動の余地がなくなってしまい、ポジティブな出来事があったとしてもそうとわからなくなってしまうだろう、といって。患者が望んだからと言って心臓のペースメーカーの目盛りを、患者が勝手にいじれないのと同じだと。

結局、患者はその説得で納得しなかったらしく、定期検査にこなくなり消息を絶ったという。ボルトを上げてくれる医者を探しにいったのかもしれない。僕自身は医者側の意見に全くそのとおりだよなあと思いながら読んでいたのだが、本書の著者は意見が違い、自分の気持は誰でも自分が一番よく知っているのだから、患者自身が自分の環境や好みに合わせて気分を調節できるようにしたらどうだろうと語る。

おわりに

脳深部刺激療法がもしもより一般的な立ち位置を得るようなことがあれば、こうした問いかけはこれまでよりも一般的になされるだろう。このテーマは、幸福にとどまらず、多くの問いかけを含んでいる。うつ病の治療で用いられた電極刺激で、記憶力の向上が見られることもあるが、じゃあ記憶力向上のためにやってもいいのだろうか。

あるいは、ヒースがやった、同性愛者の脳に刺激を与えて異性愛者のように振る舞わせる、「人の行動を変える」こともできる。『患者B-19と電極治療の物語には、もっと一般的な、「人間とは何か」に関する二つの異なる衝突が完璧に具体化した形で表れていた。深く掘り下げればそれは、人間の行動は操作されるべきなのか、そうだとすれば誰によって操作されるべきなのか、という問題だった。』

暴力衝動を抑えたり、てんかんの発作をおさえたり、様々なヒースによる実験が本書には並べられていくが、こうした、「人間の行動はどこまで操作されるべきなのか」というテーマが本書全体を貫いている。

余談としての「しあわせの理由」

しあわせの理由

しあわせの理由

僕はこうしたテーマに触れて、グレッグ・イーガンによる、死滅した神経回路に、4000人分のサンプルをまとめた義神経を作り上げる手術を受け、すべてに幸福を感じ、「好み」を4000人分の中から選択しなければならなくなった青年を描く短篇「しあわせの理由」を思い出した。しあわせのない人生は耐え難いが、自由に選択できるしあわせは──正しいのだろうか? 間違っている可能性は、ないのだろうか?

「しあわせの理由」では、そうしたしあわせや好みに関する無数の選択可能性を、そもそも我々は遺伝子を通じて一千万の祖先から受け継いだものが頭の中にあるわけであって、今さら4000人増えたからといって何が変わるのかと肯定的に捉えて終わるが、実際に我々がそうした状況に直面してみたと仮定すると、そう簡単には割り切れんな〜〜という感じだ。うつは炎症であるとする説など、精神疾患領域にはまだまだわかっていないことの多い世界でもあるので、脳深部刺激療法がどこまで一般的な治療法になるのか、まだわからないところでもある。