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意外な形で大気と人間の関係を描き出してみせた化学ノンフィクション──『空気と人類 ―いかに〈気体〉を発見し、手なずけてきたか』

この『空気と人類』は、『スプーンと元素周期表』など様々な化学/科学系のトピックスを扱ってきた作家サム・キーンによる、気体についてのノンフィクションである。一緒にいるのがあたり前の相手を「空気のような存在」というぐらいには身近なものだが、その性質、歴史、役割に注意を払う人は多くはないのではないか。

カエサルの最後の息を一日に何回吸い込んでいるのか?

本書の原題は『Caesar's Last Breath』という一風変わったもので、最初の話題は「我々は一日に何回カエサルの息を吸い込んでいるのか?」という問いかけから始まる。カエサルは有名な逸話の中で、自身が裏切られ殺された場に、寵愛していた相手ブルータスがいたことから、「息子よ、お前もか?」と問いかけたという。

そんな台詞は言っておらず、単なる伝説という話もあるが気体的にはどうでもよく、肺は通常、息を吐くごとに0.5リットルもの空気を排出する。カエサルは最後の一息だったので、その時は通常よりも多い一リットルの空気を吐き出したとすると、その分量は地球全体の大気と比べる0.00000000000000000001%の割合であると考えられる。吐かれた息は2ヶ月で北半球に広がり、1、2年もすれば地球全体に伝搬する。そんなに薄い割合であれば、我々はその最後の一息とは縁がないように見える。

だが、一リットル分の空気の中には約250該もの分子が存在していて、それらがバラバラに世界に向けて拡散していったと考えると、実は我々は相当な頻度でカエサルが吐いた最後の一息(に含まれていた分子)を吸っているのだ。『私たちはおよそ4秒に1回の頻度で呼吸をおこなうので、カエサルの息は毎日2万回あなたの肺に入り込んでいることになる。もしかすると、長年にわたって体の一部として組み込んでいる場合すらもあるかもしれない。ユリウス・カエサルの肉体を構成していた液体や固体が何一つ残っていないとしても、あなたとユリウスは遠い親戚みたいなものだ』

カエサルと遠い親戚だったらなんなんだ感はあるが、気体は我々にとって意識しないほどに身近なものだからこそ、それがどのような性質を持っていて、生活にどう関わっているのかをいろんな観点から知るのはおもしろいとはいえるだろう。本書では、一部は火山や地球大気の誕生の歴史を扱い、二部では人間がどのように気体を扱ってきたのかを、産業革命に繋がる蒸気機関や手術を一変させた麻酔を通して描き、三部では気候工学に宇宙人探査など、気体と人類の未来の話をしていくことになる。

人間を蒸発させるために必要なエネルギー量

僕がサム・キーンの本で好きなのが、メイントピックスに対しての余談が多いことだ。たとえば本書でいうと、第一章で語られている人間が蒸発するために必要なエネルギー量についての話をしているところなどがそれにあたる。

この章では初期地球の大気として、地球が生まれたばかりの頃から今のような状態になるまでにどんな変化が起きたのかを詳述していくのだが、それと同時にアメリカのセント・へレンズ山で起こった大噴火の話も語られている。この山は1980年に噴火し、50人以上を殺したが、この時山から5km以内という距離に、避難勧告を出した政府は嘘をついているといって残ったトルーマンというお爺さんがいたのだ。

当然嘘ではなくすぐ後に噴火したのだけれども、その際に、16km以内に居たものは全滅している。8〜16km地点ではそのほとんどが灰を吸い込んだことによる窒息死。8km以内については遺体の捜索すら行われなかった。5km以内に住んでいたトルーマンは跡形もなく消失したが、では、人間を蒸発させるためにはどれだけのエネルギー量が必要なのだろうか。これについて、人間の蒸発に関する研究というものが存在するらしく、その過程を水分の蒸発、内臓の蒸発、骨の蒸発に分けている。

人間の水分含有量は、トルーマンの年齢と体重でいうと45リットル。この分量の水の温度を100度にするためには、約2900キロカロリーが必要だ。しかしこれをすべて水蒸気にするにはさらにエネルギーが必要で、2万4000キロカロリーが必要になる。紀元79年に噴火したヴェスヴィオ山の犠牲者の中には、高温の火山ガスで脳が沸騰し、その蒸気が逃げ道を作ろうとして、頭頂が吹き飛んだ人間がいたという。おそらく即死で苦しみもなかったと思うが、ごめん願いたい死に方のひとつである。

続いて内臓は、軟骨、脂肪もあわせると約11キロ。内蔵の分子に化学変化を加えるためには、2万7000キロカロリーが必要になる。骨が一番たいへんで、骨の主成分であるハイドロキシアパタイトは沸点がとても高くて蒸発させるのは骨が折れる。おそらくトルーマンの骨は失われずに残ったと思われるが、骨を含めて蒸発させようと思ったら、およそ7万5000キロカロリーを一瞬のうちにぶつける必要があるという。

気体からわかること

大気の組成によって、地球環境は大きく変わる。46億年前、誕生まもない地球の大気は高温の水蒸気が大部分で、その後数億年かけて冷えていくことで水蒸気が雨になって降り注いで海ができ、二酸化炭素と窒素が大気の主成分になった。

そうすると海に二酸化炭素が溶け込んで、カルシウムイオンと結合すると石灰岩として海底に堆積し、大気の主成分は窒素に。その後、光合成を行うシアノバクテリアが海中に誕生し、二酸化炭素と自ら有機物と酸素が生み出されると、メタンなどの温室効果ガスがそれと反応して、循環から取り除かれる。これによって地球の表面温度が低下、その後地球の酸素濃度は高くなったり低くなったりを繰り返していく。

酸素濃度が高くなると少しの火花でも大きく燃え上がるなどいろいろな変化があるが、一つおもしろいトピックとしては昆虫の大きさに関係してくることだ。小型の昆虫は肺を持たないが、体表にあいた小さな孔を通して細胞内に酸素を行き渡らせる。この仕組みは、昆虫があまり大きくなければうまく機能する。だから大半の昆虫は小さいわけだけれども、酸素濃度が35%あるエネルギッシュな時代(3億年前)には、簡単に酸素が取り込めるので、巨大な昆虫が生存可能になり、カラスほどの大きさのトンボに似た生物や一メートル近くのムカデ、タイヤ幅のクモが存在していたのだ。

おわりに

このように、惑星の大気の組成は、生物や海洋、大陸に変化を与える。逆に人間含む生き物の活動もまた、大気に影響を与えることから、遠くの惑星の大気の組成を調べるだけで生物の有無を判定できるのではないか、とする研究もあるぐらいだ。大気中にメタンと酸素が共存する場合、互いに反応しあって消えていく傾向にあるので、この二つが豊富に共存していたら何かがそれを絶えず供給している可能性がある。

と、地球から火山、昆虫に異星の知的生命探査まで、気体をめぐる話はあらゆる領域にまたがっている。気体テーマは非常に大きく、本書だけで扱いきれているとは言えないが、カエサルの息を我々は一日何回吸い込んでいるのか? というように、意外な形で大気と人間の関係を描き出してみせた、素晴らしいノンフィクションだ。

同じ著者の『スプーンと元素周期表』もめっちゃおもしろいのでこっちもオススメ
huyukiitoichi.hatenadiary.jp