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現実がSFになった世界を描き出す、芝村裕吏の統計SF──『統計外事態』

統計外事態 (ハヤカワ文庫JA)

統計外事態 (ハヤカワ文庫JA)

この『統計外事態』は、ガンパレや刀剣乱舞のゲームデザインやシナリオで有名な芝村裕吏の最新のSFである。芝村裕吏は近年ゲームデザイナー・シナリオライター以外にも多数の小説作品を出して名を馳せているが、ハヤカワ文庫からも定期的に単発のSF長篇を刊行している。特に前回早川から出していた仮想現実物の『セルフ・クラフト・ワールド』全3巻はその年のベストに近い傑作といっていい出来だった。

セルフ・クラフト〜が出たのは2016年のことだから、早川のSFの作品としては約5年ぶりの作品か。今回のテーマは、タイトルにも入っているように「統計」になる。統計をテーマにしたSFって何?? と思うし、僕も読み始める前はどんな話なのか(あらすじとか読んでも)なんにもわからんと思っていたのだが、読んでみたら統計とSFがしっくり噛み合っていて、これがおもしろい! 統計とSFは言われてみればどちらも「未来を予測する」点で重なり合っていて、相性がいい──かどうかは扱い方次第だが、うまきことSF×統計は本作の中で絡み合い、演出されている。

物語の舞台は2041の日本。アフリカさえも人口減少に転じ、全世界的に少子化が進行。それに伴って世界経済も成長を止め、人類という種自体が先細りになった時代。日本は当然少子化社会のトップをひた走っており、統計上一番多い人口は女性の80歳以上、20歳までの若年層は人口の10%もいない。こうした統計情報が序盤から開示されるわけだが、これは別にフィクションというわけではなく現実の統計における人口予測も似たような数字(幾つかのシナリオに分かれるけど)を示している。*1

 結果として二〇四一年現在、原因も分からず対応も特になく、人類は先細りになっている。我が国日本も、その一つだ。どうすりゃいいのか分からないまま人類は漂流している。
 それでも、僕は幸せになりたい。

幸せになりたいと語る語り手は、統計データの矛盾から犯罪を見つけ出す、外注の統計分析官。名を数宝数成といい、40歳で在宅勤務、週に30時間の労働で1000万近くもらっている、経済も停滞したわりにはいいもんもらっている人物である。

統計とSFと統計外事態

統計は数量をもとに現象を把握し、未来にどうしたらいいのかの意思決定や思考プロセスに用いられる。だから、ある意味では未来予測のためのツールであり、その点でSFと相性がいい。統計とSFが相性がいいかどうかはは扱い方次第と書いたのは、統計的予測通りに未来が展開したらフィクション、物語としてはおもしろくないという単純なポイントにある。物語は統計から外れた「意外な展開」を必要とする。統計を扱う物語としてはコンフリクトが起こるのだ。そこで本作は統計をテーマとしながらも、既存のデータから予測不可能な「統計外事態」に遭遇する物語になっている。

語り手がついている統計分析官とは具体的にどのようなものなのかといえば、まさにこの「統計外事態」を扱う仕事である。大量の実データをみながら統計データとの差が大きいところを探し、そのデータが本当におかしなデータなのか、擬似相関関係の排除(たとえば、朝食を食べる家庭の子は学力が高いことを示すデータがあったとしても、それは擬似相関であって朝食を食べること自体に学力を高める効果はない)を行い、それが既知の要因で説明がつかないのであれば、そこでは統計では推測できない何かが起こっているのではないかと判断し、報告する。統計外事態を探す仕事だ。

2041年なので実データと怪しいデータ(統計的な予測値と実データが解離している不自然なデータのこと)のリストアップはAIがやるのだが、AIでは擬似相関と相関関係を見抜くことが難しい、データを解釈する力はまだまだ人間の方が上で、そこは人力に頼っているのがこの時代。語り手の数宝は国に外注で雇われていて、国家の敵を見つける、という漠然とした目的のもと、送られてきたデータを日々分析している。

数宝が一日の最初の仕事としてとりかかったのは、静岡でほとんど人が住まなくなった集落で、水の消費量が激増している、というデータだった。具体的には7200倍以上の水の使用量が半年も続いている。もともと人のいない集落なので、7200倍といっても10日でプール一杯分くらい。そう聞くと、そこまで不自然な数字ではない。工場の建設、水道管の破裂、農業用水、金持ちが引っ越してきて、プールに水を入れるようになったとか。こうしたありえそうな出来事を一個一個調べて潰していく、地味といえば地味な仕事だが、原因となりそうなものがまったく見当たらない。これがこの物語における最初の、そして最も大きな「統計外事態」だ。

 統計では出てこない事態がそこにある。統計外事態というやつだ。統計で言えばそれ以外、という案件だ。んー。しかしどうかな。統計の基礎として、元になる統計情報がしっかりしていないと、どんなに優れた統計分析をしても意味がない。僕は意味のない統計データを突き合わせて袋小路にはまっているだけかもしれない。そして統計には、これを確かめるすべがない。統計の限界、というものだ。

もちろん、水道消費量の数字そのものが架空で、粉飾のため数字だけいじられているなど無数の可能性が考えられる。すべて検討・調査し、ありえないと結論づけた結果、もう現地まで行くしかないと結論づけ、自転車を駆って静岡の集落へと向かう。

そこで彼は国籍もよくわからない裸の子供たちを見つけるのだが、これを端緒として単なる水の使用量と比較にならない大きな騒動──突如現れた謎のハッカーによる、世界規模の経済の混乱、セキュリティの穴をついて数宝の経歴をまるごと書き換え、それら一連の事件の犯人として仕立て上げる何者かの攻撃を受けることになる。

サイバー攻撃など今も世界中で起きているが、人間の経歴をまるごと書き換えたり、日本の年金運用資産が突如1000分の1にするような大規模なものを実行できるほどの能力を持った存在などかつていなかったし、国家にはそのような暴落を起こす動機がそもそも存在しない。では、これはいったい何者の仕業なのか──といったことが、水の使用量増大の謎と合わせてミステリ敵に展開していくことになる。

現実がSFになった世界

おもしろかったポイントのひとつは、語り手は元SF研所属のSFファンでもあって、「現実がSFになってしまった」というフレーズが繰り返されること。『錯覚を振り払うように歩きながらSFのことを考える。いつの間にか時代が、現実がSFになってしまって、文芸としてのSFは死んでしまっていた。』

この世界では文芸としてのSFは死んでしまっているようなのだけど、このような統計を扱った未来の作品でSF推しがあるのは、芝村裕吏がSFファンで語り手に自己投影をしているから──ではなくて、未来の特殊な知能や予測不能な出来事が起こっていて、統計のために必要なデータベースが存在しないときには「いっそのことSFをデータベースに用いればいいのではないか」という発想に繋がってくるからだ。

現実的には、SFは未来予測をするためのツールではない(作家も目的としているのはおもしろい物語を書いて本を売ることであって、別に未来予測自体が目的なわけではないことが多い。未来予測は作品をおもしろくするための手段のひとつにすぎないし、あるいはディストピア系の作品であれば作品の中心テーマは未来予測ではなく「こうなってはいけない」という未来への警告であるケースもある)のだけれども、発想としてはおもしろく、うまいこと知能とはなにか、といったまた別のSFテーマにも接続されていく。この記事では特に触れていないが、中国の監視社会の問題や世界情勢も話に密接に関わってきて、国際サスペンス的にもおもしろくなっていき、盛りだくさんの内容に仕上がっている。