基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

階層の異なる知性間の大戦を描き出す『天元突破グレンラガン』級のスペース・オペラ──『最終人類』

最終人類 上 (ハヤカワ文庫SF)

最終人類 上 (ハヤカワ文庫SF)

この『最終人類』は著者ザック・ジョーダンのデビュー作にして、最後の人類となった少女が同胞を求めて多様な種族が存在する宇宙を冒険していくスペース・オペラである。この世界にはネットワークと呼ばれる宇宙に飛び出した種属たちのコミュニティが存在するのだが、旧人類は何かをやらかして滅亡させられてしまったらしい。

理由は不明だが人類最後の生き残りであるサーヤは、ウィドウ類のシェンヤに偶然拾われ、その後養女として育てられることになる。この世界では人類は忌み嫌われていて、生き残りの存在を知られると危険なので、サーヤは別の種を偽装しているのだが、ある日彼女の生まれを知っていると接触してくるものが現れ、彼女は銀河中を巻き込んだ争いに巻き込まれていくことになる──。と、あらすじをまとめるといかにもスペオペっぽいスペオペなんだけれども、実はけっこう特殊な話でもある。

異なる階層間の知性の描写がおもしろい!

というのも、本作の主題やおもしろさは、そうした戦争にあるというよりも、「人間を遥かに超越した知性」や「階層差のある知性種」を描き出していく点にあるからだ。たとえば、この世界では種属ごとに知性の階層が分けられていて、知性階層がそのまま階級として機能している。第一階層の知性は単純なコミュニケーションがとれる程度の知性で、市民権が認められるのは1.8階層から──といったように。

第二階層知性は、宇宙に進出できる人類程度の知性領域である。本作では、知性の階層が一段階上がるごとに、知性は12倍になると説明される。第三階層の知性は第二階層知性が何時間も集中して思索して理解することを、直観的に理解できる。第四階層に到達できるのは通常大型の集合精神だけで、このクラスは第二から見ると神のように映る。第五階層は惑星知性体クラス。第六階層以上の知性は、今のところはまだ存在は確認されていない。そのクラスの知性だと、偽装されている可能性はある。

で、この物語の中でも第1.8階層レベルから第三階層、第四階層と様々な階層の知性が出てくるんだけど、その描き方がまずおもしろいポイントだ。知性の階層が異なる物同士がどのようにやりとりをするのか、世界を見ているのかを説明するのは難しいが、蟻でたとえると、人間の小学生が夏休みの自由研究で蟻を公園から採取して虫かごで飼っていたとして、その蟻の運命は人間の子供の手にゆだねられている。

(意識があると仮定して)蟻からすれば自由意志でたまたま目の前にあったおいしいごはんを集めて巣に戻って食べているとしか思えないが、実態としてはより高い階層の知性を持つ人間に食事も巣も何もかも管理されている。飼育に飽きてご飯が与えられなくなったとしたら、蟻はそれを単純に餌がなくて不運だと思うだろう。仮に、人間をはるかに超越した知性がいると仮定すれば、これと同じことが起こり得る。

我々が決めている行動のすべてが、超越した知性の思惑通りだったとしても、我々はそれに気づくことはできない。制御されているという事実それ自体に気づくこと自体はできたとしても(現代の我々もこの世界がシミュレーション宇宙なのではないか? と仮説を立てることはできる)、それを実証することはほぼ不可能なのである。

 ライバル生徒は二・九階層。引率者は二・三階層。運搬、整備用のドローン、掃除機、衛生設備などは平均一・七階層。ストロングアーム類のマーは一・九階層。アンドロイドのロシュ、レッドマーチャント類のフッド、そしていま扉口に立って壊れそうなほど震えている人類は、いずれも第二階層の底辺付近だ。彼ら低階層者はこの一年でさまざまな運不運を経験した。見て、実感した。だから、じつは運など存在しないとは想像もしない。それぞれが目に見えない小さな形で高階層者の目的のために働かされたとは気づかない。*1

最初、物語は人類の生き残りであるサーヤに寄り添って物語を追っていくが、次第に様々な知性階層の物の視点が物語に挿入されていき、いったいこの世界をコントロールしているのは誰なのか、人類が滅ぼされなければならなかったのはなぜなのか、なぜサーヤだけは生き残っているのかなど、多くの謎に答え──それすらも誰も検知できないほど高い階層の知性から制御されている可能性もあるのだが──が与えられていく。そして、この世界で自分自身に制御を取り戻すことなどということは本当に可能なのか、という大きな問いと状況に話が広がっていくことになる。

個人のドラマも良い

最終的にはベイリーやグレンラガンばりの宇宙、銀河、数千兆の精神をまたにかけ、超知性体大戦とでもいうべきスケールの物語が展開し、それを表現するために文章表現はどんどんメタファーに寄っていって──と、マクロ視点の話がおもしろいんだけど、反対に個人のドラマでも十分楽しませてくれるのが本作のよさである。

外骨格で多脚多関節という人間とはまるで異なる姿かたちと思想を持ちながらも娘を愛する、ウィドウ類の母親シェンヤと、柔らかな肌を持つ人間サーヤの母娘の愛情の物語としても秀逸だし、サーヤのキャラクタがまたいいんだ。世界でたった一人の人類であるうえに、それを明かしたくても明かすこともできず、自らを欺いて生きなければいけないという過酷な状況。仲間は育ての母親以外に一人もおらず、精神が潰れるような羽目にあいながらも、何度だって不屈の精神で立ち上がってみせる。

下記引用部は、異常な事態に巻き込まれ、精神がめたくそになって生きることを諦めようとしている時に復活する描写なのだが、とにかく文章が熱いんだわ!

 関係ないと、脳の暗い部分がささやく。なにも関係ない。このままでいろ。
 水の色が変わった。青黒い冷たい色から温度スペクトルを通って紫になり、さらに鈍い赤へ。また音がした。さらにまた、大きくなる。鈍い頭でぼんやり考えた。あれは……なんだ。
 自分の名前だ。
 体の奥底でなにかが目覚めた。熱い怒りに火がついた。死んだはずの反応を呼び起こす。筋肉が冷えて体を丸めているが、頭は活発に働いている。それどころか怒っている。現実に裏切られた。母と故郷を失った。持ち物はネットワークユニットだけ。自分の精神にさえ裏切られ、この冷え切った船倉で凍死しようとしている。しかしまだ死んでいない。心臓は動き、細胞は代謝を続け、肺は呼吸している。母を失い、計画もなく、だれが乗っているのかわからない安っぽい貨物船に閉じ込められ……。しかしそれで充分ではないか。
 自分は娘のサーヤ。ウィドウ類のシェンヤの娘。死ぬのは今日ではない。*2

サーヤは人類ではあるのだけれども、他の人間は知らないし、ずっとウィドウ類の娘として育てられてきているので人間の価値観じゃなくてウィドウ類の価値観と思想で物事を考え、行動していくのがまたいいんだよな……。

おわりに

さまざまな知性階層を描き出していくので、読んでいて何の話をしているのかよくわからなかったりどういう状況か把握しづらかったりもするのだが、そうした複雑に絡まりあった糸を解きほぐしていく楽しみもある。デビュー作だけあって、そうした点も荒削りといえるのかもしれないが、勢いがあってそれが、おもしろい。

翻訳は『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』で関西弁を出したりした中原尚哉氏で、今回も種属ごとに喋り方が凝っていてこれがよく合っている。

最終人類 下 (ハヤカワ文庫SF)

最終人類 下 (ハヤカワ文庫SF)

*1:上巻p328

*2:上巻p164