基本読書

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精神病院に偽患者を送り込みその脆弱性を明らかにした有名な実験は、実は間違いだらけだった──『なりすまし——正気と狂気を揺るがす、精神病院潜入実験』

近年、かつて行われた有名な心理学系の実験が、再現実験の失敗やデータ不備の発見により、実は間違っていたという事実が次々明らかになっている。たとえば有名なものに、マシュマロ実験がある。この実験では、マシュマロを皿の上におき、「それは君にあげるけど、私が戻ってくる15分の間に食べるのを我慢していられたらもう一つあげる」と指示する実験で、ここで自制し、より大きなリターンを得られた子供ほど、大人になっても優秀と判断される割合が大きかったことを示した。

1970年代に実施されたこのマシュマロ実験は話題になり、いろいろなノンフィクションで目にしていたから、本当につい最近まで僕もこれは正しい実験だと思っていた。しかし、2018年に実験結果が発表された、被験者の数を900人以上に増やした再現実験では、「2個めのマシュマロを手に入れたかどうか」は自制心がどうこうよりも、大部分は被験者の経済的背景と関係しているという結論が出ている。長期的な優秀さとの相関において重要なのは、マシュマロなどのご褒美を先送りできる自制心自体よりも3歳時点における家庭の年収と環境なのだ。身も蓋もないが。

と、ここで本の話題に戻るが、『なりすまし——正気と狂気を揺るがす、精神病院潜入実験』はマシュマロ実験と同じぐらい有名な実験が、実は虚構の元に成り立っていたのではないか? という疑念を追求していく精神医学ノンフィクションである。取り上げられていく実験は1973年に『狂気の場所で正気でいること』というタイトルでサイエンスに掲載されたもの。論文では、精神障害の診断を受けていない疑似患者が、幻聴があるふりをして、アメリカに存在する12の精神病院を訪れ、入院し、退院するまでの詳細なデータとレポートが描かれていく。

その論文では8名の偽患者の名前があげられていて、みな精神的には問題を抱えていなかったにも関わらず、入院を許可され、偽患者とバレることもなく、退院することができた。つまり、精神科医は正常な人と精神障害を持つ人を見分ける方法をもっていないことを明かしたのである。

この論文が発表されたあとすぐに大きな話題になり、精神医学界に衝撃を与えた。どうやって適切に診断すべきなのか、精神障害を治療すべきなのかといった数々の疑問についてもう一度問い直し、大きな改革を迫ることになったのだ。そんな論文が、実は間違いだらけであったこと。それどころではないでっちあげがあったことが、本書では執拗な調査によって明らかにされていく。

ローゼンハン実験の不備の数々

本書の著者は自己免疫性脳炎という病気でありながらも統合失調感情障害などの精神疾患であると誤診をくだされ、見当違いの治療で苦しんだ闘病記で著名になった作家で、彼女がこのローゼンハン実験に興味を持つのも当然といえる(彼女自身が偽患者となっていたのだ)。

しかし、彼女がこの実験についての調査をはじめると、不可思議なことが次々明らかになっていく。たとえば、ローゼンハンは出版社と出版契約を交わしていたのだが、原稿は提出されず、出版社からは訴訟を起こされている(ちなみに、ローゼンハン自身は2012年に亡くなってしまっている)。さらには、実験に出てくる8名の偽患者たちは一人も身元が明らかになっておらず、潜入先の病院さえも秘匿されている。告発したいのは精神医療のシステムそれ自体であって、病院や個々の医師ではないから、とご立派な理由をつけているが、怪しいといえば怪しい。

著者はローゼンハンの息子など関係者に取材を敢行し、個人メモなどあらゆる資料を集めていく。その過程で明らかになっていくのは、論文がいかに不備にまみれていたかだ。たとえば、論文の中にはたくさんの数値(たとえば、71%の精神科医が顔をそむけて素通りしていくなど)が出てくるが、実際に潜入を行った人物に話を聞いてもそうしたデータを記録していた記憶はないという。病院の患者数にも7千人単位多く計上していたり、入院期間の誤りなど、不備をあげればきりがない。

それだけならまだしも、この実験では「ドスンという音」「空っぽだ」「空虚だ」のシンプルな幻聴が聞こえること、それだけに絞って症状を訴えることが前提とされていた。それだけの訴えで入院させるなんて! という精神病院への不信感も話題を呼ぶきっかけになっていたのだ。しかし、ローゼンハン自身の潜入メモからして入院するためにいくつも症状を付け足し、盛っており、自殺願望さえほのめかしていた。

通常、自殺願望や自傷の危険性のを訴える患者は危険性が高く、ただちに入院させる必要があるという判断材料になるから、前提が崩れてしまっている。それ以外にも自分が診察された際のカルテを論文発表時都合よく書き換えてもいる。

本当に存在していたのか?

この時点で論文の信頼性は地の底に落ちているのだけれども、実はこの後にもっと深い闇、疑念が明らかになる。8人の偽患者のうち、一人は主著者であるローゼンハンであることがわかっている。そして、もうひとりビルという人物の話も聞けた。

その時点で明らかになったのが上記のデータ不備、データ改ざんの数々の事実だったのだが、著者がさあ、では他の6人にも話を聞こう、と探し回っても、一人も見つからないのである。偽患者らの個人情報は最も研究に近かった助手にすら明かされておらず、周囲の人間に聞き取りを繰り返しても、条件に該当する人物が見つからない。

最初、彼女は偽患者らの実在を前提に調査を続けているのだが、ローゼンハンの誇張癖。あまりに完璧すぎる偽患者の症例カンファレンス。そもそも偽患者の入院費はローゼンハンのポケットマネーから出したと書いているが、相当な金額になったはずのその費用をどうやって用意したのか? など怪しげな証拠が出てくるにつれ、偽患者は本当に存在していたのだろうか? と疑念を抱き始める。『今や問題はこうだ。ローゼンハンは自分の発見をできるだけ正当なものに見せるためにn数(つまりデータ収集するサンプル数)を増やそうと、一から偽患者をでっちあげたのだろうか?』

おわりに

ずっと追い求めてきた人たちは、実は存在しないのではないか? と気づきを得る瞬間など、ノンフィクションでありながらも一流のミステリー・サスペンスのような興奮がわきおこってくる逸品だ。実際に偽患者らは全員見つからないのか? という肝のところ自体は読んで確かめてもらいたいが、精神医学を大きく変えたこの研究が信用ならないのは、間違いない事実である。ローゼンハンという、「なりすまし(The Great Pretender)」の達人の、恐ろしくもおもしろい物語であった。