いまのご時世、インターネットに情報は溢れかえっており、旅先でそうそうピンチに陥ったりすることもない。言葉が通じなくても、スマホで翻訳すればやりとりできる。ある意味、アクシデントもなけりゃあ未知のない現代は魅力的な旅行記を書きづらい時代である。実際、本書でも本当にたいしたことは起こらないのだけれども、その分、旅の細かなディティール──何を食べたとか、どんな人と出会ったとか、ちょっとした困りごと、悩みごとだとかそこでどんな会話がかわされたのか──、ようは、いきあたりばったりなバックパッカーたちの生態が詳細に描き出されていく。
そして、たしかに劇的なことは起こらないが、旅先における些細な日常のことだって、見方を変えればその一瞬、その瞬間にしか起こり得ないことなのだ。たとえばたまたま通行できるかわからない難所があり、そこをどう切り抜けるかとか。人との出会い、別れ。そうしたすべてはその時その場所にいなければありえないものである。本書はそうした、「なんでもないが特別な一瞬」を丁寧に切り取っていく。
石川宗生の書く小説は、たとえば道路側の半分が消失した丸出しの家と、なぜかそこで私生活丸出しで暮らす家族4人と、それを観察しいったいこれはなんなんだとワイワイ議論する観察者たちの物語「半分世界」のように、どこからこんな着想が湧いてきたのだろう? と思うような奇想によって彩られている。本書は旅行記とはいえそうした奇妙さが溢れていて、章ごとにまるで短篇小説を読むようによむこともできる。
旅のディティール
旅の記録が始まるのは中国のウイグル自治区にあるカシュガルからタシュクルガンへと向かう道中。何でも、タシュクルガンにいくのはそう簡単な話ではないらしい。
ある人はタシュクルガンに行く途中の検問所で追い返されたと語る。ある旅行代理店の人間はそんなことはない、個人でもいけるという。また別の旅行代理店の人間は外国人の個人旅行は禁止されているという。誰に聞いても少しずつ異なる答えがかえってくるので不条理文学の世界に迷い込んでしまった感があるが、そんなある時著者は滞在中のホステルで中国人らと知り合いになり、彼らの中にはタシュクルガン行きの許可証を取得している人もいたので、急遽タシュクルガンを目指す旅行グループ「チーム・タシュクルガン」が結成されるのであった……。とこんな感じで、いきあたりばったりで、いろいろな人と出会いながら前に進んでいく旅が描き出されている。
中国人たちとどういう話をするのかといえば、政治の話から蒼井そらの話までさまざまで、そうしたどうでもいいことがしっかりと書かれているのがおもしろい。たとえばこんな宴会のシーンとか。
こと中国で絶大な人気を誇るのは、言わずとしれたセクシーアイドル蒼井そら。
中国語読みは「ツァンジンコン」らしく、酩酊の果てになぜかみんなしてアメリカ合衆国の応援「ユー・エス・エー!」のリズムで唱え叫んだ。
「ツァン・ジン・コン!」
「ツァン・ジン・コン!」
「ツァン・ジン・コン!」
カシュガルの夜空に響きわたる蒼井そらの名。
ただ蒼井そらの話だけしているわけではなくて、中国のチベット侵攻についても突っ込んで聞いていたり「よく仲良くなっているとはいえ中国人相手にそんなこと聞けるな」と思うが、わりと突っ込むべきところは突っ込んでいくスタイルである──。そして、もちろんそうやって一緒に旅をした相手ともすぐに別れがやってくる。共にタシュクルガンへと向かった中国人らと、いつか日本に行くから、君もまた中国に来いよな、というよくある別れの会話の後に訪れる述懐は、旅の寂寥感に満ちている。
そういえば、自分が旅をしていると実感するのはいつもこういう別れのときだった。「また会おう」という日本だったら現実的な言葉も、異国ではひどくたよりなく感じてしまう。旅はそんな儚い約束の連続で、果たせた約束より、いまだ果たせぬ約束ばかりが増えていく。
でも中国と日本は近いし、モリくんとはいずれまた、きっと。
旅あるある
道中、こうやって様々な人と出会っていくのだけれども、合間合間に「旅あるある」が語られていくのもおもしろい。たとえば、タシュクルガンへ向かう道中にあるカラクリ湖と出会った時、その風景を前にして『テレビやガイドブックで見慣れた有名な観光名所よりも、道中の名もなき景観のほうが感動したりする。』と書いたりする。
あまりにも居心地のいいホステルに出会うとまるで沼にハマったようにそこからしばらく動けなくなってしまうとか、『旅先で魅力的な国の話を聞き、行ってみたい国が初春の枝葉のように広がっていく』とか。世界一周旅行者などの長期旅行者がたどるルートはかぎられているので、世界を旅しているにも関わらず旅人同士で共通の知り合いがたくさんいる、というのも意外であった。著者も、出会った人と別れたかと思いきやその後ひょっこり再会するのを繰り返している。たとえばある時、著者は旅の道中で顔なじみになったナギサちゃんという女性としばらく旅をするのだけど、いったいこの二人はどういう関係なんだろうとよみながらドキドキしてしまった。
なんてことのない仕草が、センセーショナルな出来事になる。
些細な断片でも、それは特別な記憶になりえるのだということが本書を読むとよくわかる。たとえば、アルメニアを訪れた著者は、旅人仲間からの紹介で在アルメニア日本大使館の職員らとの飲み会に参加するのだが、そのシーン(下記)が、また、なんでもない風景なのに、「遠い世界にもリアルな人間が生きていて、そこならではの日常があるんだな」と想像させてくれるのだ。
たとえばひとりの女性はマオちゃんの話に聞き入りながら、厚焼き卵をおいしそうにほおばっていた。もうひとりの若い女性はそのテーブルの端っこですこしばかり物憂そうにビールを飲んでいた。そしてひとりの男性はその和解女性のことをやたらといじっていた。中学生の男子が気のある女子にちょっかいを出すように。
そうした人間味あふれる仕草のひとつひとつが、ぼくにとってはセンセーショナルな出来事だった。
いま、世界はとても旅ができるような状況ではないが、だからこそこういう本を読んで旅をした気分の片鱗だけでも味わうのも悪くない。逆に、旅に行きたくなって苦痛を味わうことになるかもしれないけれど。巻末には宮内悠介との対談もあるので、SFファンも読んでみてね。