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主要SF賞を総なめにした『宇宙へ』の続篇にして、単独でも読める宇宙開発SFの傑作──『火星へ』

この『火星へ』は、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞の主要SF賞を総なめにした『宇宙へ』の続編にあたる。話は繋がっているが、それぞれの巻で話はオチていて、違ったおもしろさのある作品なので、どちらから読んでもらってもかまわない。
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『宇宙へ』について

『宇宙へ』で描かれたのは、1952年に地球の海に巨大な隕石が衝突し、それによって巻き上げられた水蒸気によって地球に破滅的な地球温暖化が進行していくことが明らかになった世界だった。最終的には、地球は人が住める環境ではなくなってしまう。そのため、史実ではアポロの月着陸以後下火になった宇宙開発が、この〈宇宙へ〉シリーズでは活性化し、月や火星といった他惑星にその活路を見出すことになる。

また、『宇宙へ』で特徴的だったのは単純に歴史改変をして宇宙開発史を紡ぎ出していくだけではなく、当時の時代性の中に、現代的な価値観の挿入を行っているところにある。たとえば、50年代、60年代といったまだまだ男性至上主義の色が濃いこの年代において、仮に月や火星に入植を前提とした調査を行うのであれば、そこに(生殖の要となる)女性がいないなどということはありえないのではないか? といって女性宇宙飛行士の存在を認めさせるために奮闘する女性たちの姿が描かれていくのだ。

現代でさえ、改善されつつあるとはいえ宇宙飛行士のほとんどは男性であり、施設や宇宙服も男性を基準にして設計されてきた。〈宇宙へ〉シリーズは、宇宙開発、パイロットに、初期から女性が関わっていたらどうなっていただろうかという意味でのイフの宇宙開発史を描き出す作品でもあるのだ。女性が宇宙に出るとなると、男性とはまた異なる問題が出てくることになる。放射能に長期間晒されることで子供ができなくなるのではないか、生理の問題などなど。それもまた本作が描き出すことだ。

『火星へ』について

第二作である『火星へ』では、『宇宙へ』からの流れを引き継いで、1961年から物語が展開する。状況としては、人類は月に仮の拠点を築き上げ、次に火星の有人探査を目指しているところだ。2021年現在、計画こそあるもののどの国、組織も火星の有人探査に成功していないことを考えると、これは驚異的なスピード感である。

隕石衝突による状況説明や女性パイロットの葛藤に主軸があたっていた前作とは異なり、今作ではもはや宇宙開発は急務であることは前提のもと、どのようにして宇宙に人類の新しい拠点を作り上げるのか、また火星にどうやって人を送り込むのかといった技術的な話が展開していて、こちらの方が宇宙SF的には本格的である。

また、前作ではスルー気味だった、「いや、そもそも地球環境が悪化するからといって、宇宙開発にリソース振り分けるのは悪手じゃねえの?」問題にも本作では焦点があたることになる。何しろ、本作は冒頭からして、前作で主役を張った宇宙飛行士・航計士のエルマ・ヨークの乗る月ー地球間の往還船が、〈地球ファースト主義者〉に襲われる場面から始まるのだ。地球ファースト主義者らは、宇宙に金をかける前に、地球の問題を解決しろという主張をしていて、ある意味それは正当なものだ。

彼らの主張によれば、金は巨大隕石による被害の復興にではなく、宇宙に注ぎ込まれている。被災者は10年経っても家に帰れない。保険金もでない。そのうえ、宇宙とはいっても宇宙飛行士に選ばれるのは、白人のエリートばかりだ。実際、地球ファースト主義者に襲われた往還便に乗っていた乗客は、黒人男性がひとり、台湾人女性がひとり、ほかの30人はみんな白人であった。宇宙はほとんど白人のものなのだ。

なぜ白人ばかりなのか? という不整合を突きつけられ、エルマは、現状では宇宙に出るには特殊なスキル一式が必要で、船内にいる人間は全員が修士号か博士号持ちだと反論するのだが、その状況自体が差別と不平等の構造を持っている。黒人にそういう特殊なスキルはないという思い込みと、宇宙事業に求められる学位は、金もコネも必要なもので、特に当時の黒人にとってはそれらは得るのが難しいものだ。

前作では”女性”を認めさせるために戦ったエルマだが、今作では自分自身が”白人”の側として槍を突きつけられる逆転の構図が本作では展開しているのである。

自力では変えようのない世界の仕組みとどう対峙するか

今作で描かれていく大きなテーマの一つとして、「自力では変えようのない世界の仕組みとどう対峙するのか」がある。黒人で宇宙に出ていく人材が少ないのは、確かに大卒者と特殊スキルを持っている人材が少ないという歴史と環境要因が絡み合っていて、できることもあるが、個人がすぐになんとかできるようなものではない。

エルマは地球ファースト主義者らに人質にされた後救助されるのだが、もともとレディ・アストロノートとして世界的な知名度があったこともあって、宇宙飛行士の広告塔として利用されるようになっていく。地球では地球ファースト主義者を筆頭に宇宙開発反対派の勢いも強く、一歩間違えば火星探査自体が消えてしまう。そうした時に必要とされるのは、他惑星探査の象徴となりえる、英雄的な個人の存在だ。

広告塔として、初火星探査パイロットに抜擢されたエルマだが、宇宙探査船というのは電車のように気軽に乗員を一人増やせるものではない。彼女の代わりに同じ航計士のスキルを持っていた人物が船を降ろされることになり、エルマはそれに対して自分を降ろせと強固に抵抗するが、事情を諭されるうちに、受け入れざるをえなくなる。

世界にはすぐには変えられない仕組みが存在し、何かを得るため、時にそれを受け入れざるを得ないときもある。それをどう受け入れていくのかも本作では様々な人間の立場・視点から描かれていて、それがまたおもしろい。

そう、これだ。この手の計算をすることこそがヘレンの仕事だった。わたしはその立場を奪ったのである。理由はちがっていても、わたしたちはおたがい、自力では変えようのない世界の仕組みに屈した。ヘレンもおもしろくなかっただろう。わたしだって納得したふりをするつもりはない。とはいえ、それが現実なのだからしかたがない。「わたしはこの船に、計算をするために乗っているのよ。まあ、なにはともあれ、まずパイね」

おわりに

本作は60年代の火星探査を描写するために、NASAや火星研究者、ロケット科学者に技術的な部分の助言を受けることでディティールを埋めていったとあとがきで語られている。そのおかげか、船上と地球との交信や船体制御時の細かい計算、船内でのやり取りなど、ディティールが凝っていて、宇宙SFの醍醐味を堪能させてくれる。

かつて人類が月に降り立った情景と事実は地球人類にとって忘れがたいものになったが、本作の火星探査がどのような情景と変化をもたらすのかは読んでのお楽しみだ。宇宙開発・有人探査のおもしろさと、その困難さが同時に描かれていく。類稀なる作品・シリーズだ。前作とあわせてオススメしたい。