基本読書

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嗅覚が軽んじられるのはなぜなのか?──『においが心を動かす; ヒトは嗅覚の動物である』

におい、嗅覚というのは五感の中でもわりと軽視されがちというか、仮に何か一つ感覚を消滅させられるとしても、視覚、聴覚と比べたらなくなっても構わないかな……飯を食って味は感じ取れるわけだし……というぐらいの立ち位置の存在だと思う。

が、いやいやそんなことはない、たしかに視覚も聴覚も重要だが、嗅覚はあまり意識にこそ登らないものの、人間において非常に重要な働きをしているのである、という話が展開していくのがこの『においが心を動かす; ヒトは嗅覚の動物である』である。意識しなくてもにんにく、焦げくささ、尿、うんこなど我々はかなり多くのにおいを自由自在にかぎわけてみせるし、しかもどこから漂ってきているのか、方向を知覚することまでできる。明確な形でにおいを表現できなくてもおばあちゃん、おじいちゃんちのにおい、といった明確な記憶と共に結びついていることも多い。

本書は、多様なにおいをかぎわけているとき、我々の脳内で何が起こっているのか。そうした脳・神経科学的な現在の最先端の研究から、においの研究の歴史、さらにはその心理学的な作用まで、幅広いジャンル・テーマからにおいの本質に迫ってみせる、骨太な一冊である。著者は嗅覚の研究者で本書が初めての著書だといい、一般向けに読ませる文章じゃねえだろみたいなまわりくどく専門用語だらけの文章が連続するので、読み通すには労力が必要とされるのだが、おもしろい本ではある。

2種類の嗅覚

おもしろかった話はいくつもあるが、特に興味深かったのはヒトには二つの嗅覚があるという話だ。ふつう、においは鼻で感じる一種類で、それ以外は存在しないように思える。しかし、実際にはそれだけではなく、もう一つ、「一度口に入れたもののにおいが喉の奥から沸き起こってくるもの」を知覚するルートもあるのである。

口と鼻は咽頭によって繋がっているから、口の中で咀嚼中に放たれた食べ物の分子は、口から喉の奥にたどりつくことになる。さらに、飲み込む動作をした場合、それがエアポンプのような作用を施し肺から空気がきて、口腔内の風味分子が鼻上皮にたどりつく。我々は物を食べる時、ただ口で味わうだけではない。こうやって口で噛み砕いたものの分子が鼻に到達することによっても味わっているのだ。『ほとんどの人は、食べ物の風味は口の中にあり、それが味わう経験だと思っている。しかしそうではない。あるいは少なくとも、そうでない場合もある。あなたは鼻で食べるのだ。』

おもしろいのが、イヌのように鼻からにおいをかぐ時と、口腔内から立ち上がってくる分子を中から鼻で感じ取る時では、体験が異なってくるところにある。ひどい悪臭のチーズをおいしくいただけるのも、コーヒーが鼻でかぐ時はとても良いにおいなのに、口に入れた後はそうではない理由も、ここにある。同じにおい分子を同じ鼻で受けているんだから、同じ反応=においが返ってくるのが当然ではないか? と思ったが、空気の流れ、温かさの変化、どのくらいのスピードで鼻上皮にたどりつくかなど諸々の差異によって、二種類の嗅覚は異なる体験を引き起こすのだという。

嗅覚が軽んじられるのはなぜなのか?

この口中から鼻に抜けていくにおいは、我々が何かのにおいをかぐときのように自発的に行う行動ではないから、我々の意識にのぼってこない。これは嗅覚の重要性にあまり関心が払われない理由とも関係しているのだろう。見るという視覚の意識的な動作とくらべて(我々は頭をふって見たいものを見る)、においはこっそり入ってくる。ふとそのにおいに気づき、あ、○○のにおいがする! と気づく、受動的な体験だ。

においとはふとそこにいるものであり、意識の背景にいるような存在で、だからこそ軽んじられることが多いのだろうが、重要ではないということにはならない。

 なぜ私たちは嗅覚を軽んじるのだろう? それを意識することはほとんどない。ここで言っておきたいことがある。においはつねにはっきり自覚されるとはかぎらないが、そのように無自覚だからといって、嗅覚が意識経験に不可欠でないということではない。(……)「においが処理されることで、人の経験はたえず変調されている。意識の背景のようなもので、人はそれに照らして変化や出来事を心に刻み、それに照らして自分の感情に、記憶に、食べ物探しに、あるいは人や場所や物事への関心や嫌悪に、影響する物事を選び出す」

そもそもどうやって知覚されるのか?

そもそもどうやってにおいというのは知覚されるのだろう? 光の波長に応じて網膜が刺激され人が色を認識するように、わかりやすい分子とにおいの知覚の対応関係があるのだろう、と思いきや、これがそう簡単な話ではないことが近年わかってきた。

たとえば、におい物質O1にたいしてαのにおいを感じた時、O1と類似の分子もαと似たようなにおいを感じさせるかといえば、そうではないのである。O1と類似の分子とはいっても、それは化学者が構築したルールの中で類似しているだけにすぎない。我々の嗅覚の受容体は、また別の法則でにおいを感じさせているようなのである。

なので、においがどのような知覚を生み出すのかを解き明かすには、化学ではなく生物学上のルールを発見しなければならない。しかし、それを考える・模索する上で状況を複雑にしているのが、におい物質がO1とO2、あるいはO1とO3のように混合した場合、A+Bのように知覚が足し算されるのではなく、O1が他の他のにおい物質による細胞の活性化を低減・消滅させることもあるという事実だ。あるにおい物質は組み合わせによっては強化、あるいは他の効果を抑制する。におい物質の組み合わせによってパターンが増えていくのである。ヒトがどのようににおいを知覚しているかについては、未解明のことが数多くあるが、これでは研究が遅くなるのも無理はない。

また、においは単純に受容体に結びついて像を結ぶだけではない。スルフロール(C6H9NOS)という化学物質を嗅がせたある授業では、生徒たちは牛乳の写真をみせたら牛乳のにおいを感じ、ハムの写真をみせたらハムのにおいを感じたという。同じ化学物質、においのはずだが、画像が切り替わるだけで何を嗅いでいるのかという認識が切り替わっていく。嗅覚、においについての研究は、このように知覚をどう体験するのかといった生理的・心理的メカニズムとも関わってくる。

おわりに

新型コロナではその症状の一つに嗅覚障害が現れることもあり、においが失われることがいかに生活する上できついか、レポートがたくさん上がっている。本書はそういう意味では期せずしてタイムリーになった本といえるかもしれない。

ここで紹介した他にも、フェロモンの存在についてや、調香師やソムリエといったにおいのプロたちがそんな複雑な知覚形成プロセスのにおいをどう認識しているのかなど、魅力的なトピックが続くので、興味があったらぜひ手にとってみてね。